実在とは何か
(実在とは何か、というなら)
実在はつねに真実でなければならない。
それは名前も形ももたない。
名前と形の根底にあるもの、それが実在である。
限られたものの根底にありながら、それ自体には限りがない。
それは束縛されない。
実在ではないものの根底にありながら、それ自体は実在として在る。
存在するもの、それが実在である。
それはただあるがままに在る。
それは言葉を超えている。
それは「存在、非存在」などといった表現の彼方に在る。
ものごとの知識も無知もともにぬぐい去られたあとに残る意識としての実在、
ただそれだけが真我(アートマン)である。
そのブラフマ・スワルーパ(ブラフマンの真の姿)、豊かな真我の覚醒のな
かには無知の影さえない。
世界が知られるときだけではなく、世界が知られないときも、不幸もなく、
身体もなく輝く実在、それがあなたの真の姿(ニジャ・スワルーパ)である。
(p20)
名前と形の根底
実在はつねに真実でなければならない。
それは名前も形ももたない。
名前と形の根底にあるもの、それが実在である。
限られたものの根底にありながら、それ自体には限りがない。
それは束縛されない。
実在ではないものの根底にありながら、それ自体は実在として在る。
存在するもの、それが実在である。
それはただあるがままに在る。
それは言葉を超えている。
それは「存在、非存在」などといった表現の彼方に在る。(p20)
真我(アートマン)
ものごとの知識も無知もともにぬぐい去られたあとに残る意識としての実在、
ただそれだけが真我(アートマン)である。
そのブラフマ・スワルーパ(ブラフマンの真の姿)、豊かな真我の覚醒のな
かには無知の影さえない。
世界が知られるときだけではなく、世界が知られないときも、不幸もなく、
身体もなく輝く実在、それがあなたの真の姿(ニジャ・スワルーパ)である。
(p20)
ブラフマンの真の姿
ものごとの知識も無知もともにぬぐい去られたあとに残る意識としての実在、
ただそれだけが真我(アートマン)である。
そのブラフマ・スワルーパ(ブラフマンの真の姿)、豊かな真我の覚醒のな
かには無知の影さえない。(p20)
アートマン と ブラフマン
ものごとの知識も無知もともにぬぐい去られたあとに残る意識としての実在、
ただそれだけが真我(アートマン)である。
そのブラフマ・スワルーパ(ブラフマンの真の姿)、豊かな真我の覚醒のな
かには無知の影さえない。(p20)
ニジャ・スワルーパ
世界が知られるときだけではなく、世界が知られないときも、不幸もなく、
身体もなく輝く実在、それがあなたの真の姿(ニジャ・スワルーパ)である。
内側にも外側にも等しく輝く覚醒という姿のなかの意識−至福の輝き、それ
が至高の、至福に満ちた根源的実在である。
その姿は沈黙であり、何ものにも妨げられることのない究極の真の知識(ジ
ニャーナ)だとジニャーニ(賢者)たちによって宣言されてきた。(p20)
あなたの真の姿(ニジャ・スワルーパ)
世界が知られるときだけではなく、世界が知られないときも、不幸もなく、
身体もなく輝く実在、それがあなたの真の姿(ニジャ・スワルーパ)である。
内側にも外側にも等しく輝く覚醒という姿のなかの意識−至福の輝き、それ
が至高の、至福に満ちた根源的実在である。
その姿は沈黙であり、何ものにも妨げられることのない究極の真の知識(ジ
ニャーナ)だとジニャーニ(賢者)たちによって宣言されてきた。(p20)
根源的実在
世界が知られるときだけではなく、世界が知られないときも、不幸もなく、
身体もなく輝く実在、それがあなたの真の姿(ニジャ・スワルーパ)である。
内側にも外側にも等しく輝く覚醒という姿のなかの意識−至福の輝き、それ
が至高の、至福に満ちた根源的実在である。
その姿は沈黙であり、何ものにも妨げられることのない究極の真の知識(ジ
ニャーナ)だとジニャーニ(賢者)たちによって宣言されてきた。(p20)
その姿は沈黙
世界が知られるときだけではなく、世界が知られないときも、不幸もなく、
身体もなく輝く実在、それがあなたの真の姿(ニジャ・スワルーパ)である。
内側にも外側にも等しく輝く覚醒という姿のなかの意識−至福の輝き、それ
が至高の、至福に満ちた根源的実在である。
その姿は沈黙であり、何ものにも妨げられることのない究極の真の知識(ジ
ニャーナ)だとジニャーニ(賢者)たちによって宣言されてきた。(p20)
覚醒とは何か?
(覚醒とは何か、どのようにそれを得、培うことができるか、というなら)
あなたが覚醒なのだ。
覚醒とはあなたのもうひとつの名前だ。
あなたが覚醒なのだから、それを得たり、培ったりする必要はない。
あなたがしなければならないことは、真我でない他のものごとに注意をはら
うのをやめることだけだ。
もしそれらに気づくのをやめれば、純粋な覚醒だけが残る。
それが真我である。(p21)
あなたが覚醒
(覚醒とは何か、どのようにそれを得、培うことができるか、というなら)
あなたが覚醒なのだ。
覚醒とはあなたのもうひとつの名前だ。
あなたが覚醒なのだから、それを得たり、培ったりする必要はない。
あなたがしなければならないことは、真我でない他のものごとに注意をはら
うのをやめることだけだ。
もしそれらに気づくのをやめれば、純粋な覚醒だけが残る。
それが真我である。(p21)
注意をはらうのをやめる
(覚醒とは何か、どのようにそれを得、培うことができるか、というなら)
あなたが覚醒なのだ。
覚醒とはあなたのもうひとつの名前だ。
あなたが覚醒なのだから、それを得たり、培ったりする必要はない。
あなたがしなければならないことは、真我でない他のものごとに注意をはら
うのをやめることだけだ。
もしそれらに気づくのをやめれば、純粋な覚醒だけが残る。
それが真我である。(p21)
二元性はない
(もし真我そのものが気づいているなら、なぜ私は今それに気づかないのか、
というなら)
そこに二元性はない。
現在のあなたの知識は自我によるもので、それは相対的でしかない。
相対的な知識は主体と客体を必要とする。
それに反して、真我の自覚は絶対的であり、対象を必要としない。
覚えることも同じように相対的なもので、覚えられるべき客体と覚える主体
を必要とする。
そこに二元性がないとき、誰が誰を覚えるというのだろう?(p21)
相対的な知識
(もし真我そのものが気づいているなら、なぜ私は今それに気づかないのか、
というなら)
そこに二元性はない。
現在のあなたの知識は自我によるもので、それは相対的でしかない。
相対的な知識は主体と客体を必要とする。
それに反して、真我の自覚は絶対的であり、対象を必要としない。
覚えることも同じように相対的なもので、覚えられるべき客体と覚える主体
を必要とする。
そこに二元性がないとき、誰が誰を覚えるというのだろう?(p21)
真我の自覚
(もし真我そのものが気づいているなら、なぜ私は今それに気づかないのか、
というなら)
そこに二元性はない。
現在のあなたの知識は自我によるもので、それは相対的でしかない。
相対的な知識は主体と客体を必要とする。
それに反して、真我の自覚は絶対的であり、対象を必要としない。
覚えることも同じように相対的なもので、覚えられるべき客体と覚える主体
を必要とする。
そこに二元性がないとき、誰が誰を覚えるというのだろう?(p21)
真我を知りたい
誰もが真我を知りたいと望んでいる。
自分自身を知るために、いったいどんな助けが必要だというのだろう?
人びとは何か新しいものとして真我を見たいと願っている。
だが真我は永遠不変に存在し続ける。
彼らは真我を輝く光か何かのようなものとして見ることを望んでいる。
どうしてそうありえよう?
真我は光ではなく、暗闇でもない。
それはただあるがままに在る。
それを定義することはできない。
最もふさわしい定義は、「私は私であるものである」(I AM THAT I AM)だ。
シュルティ(聖典)は真我を親指大のもの、髪の毛の先、電気の閃光、広大
なもの、最微小より微小なものなどと記している。
それらには何の事実的根拠もない。
それはただ存在なのだ。
だが実在や非実在とは異なる。
それは知識だ。
だが知識や無知とは異なる。
いったいどうやってそれを定義できるというのだろう?
それはただ存在なのである。(p21-22)
永遠不変に存在
真我は永遠に存在している。
誰もが真我を知りたいと望んでいる。
自分自身を知るために、いったいどんな助けが必要だというのだろう?
人びとは何か新しいものとして真我を見たいと願っている。
だが真我は永遠不変に存在し続ける。
彼らは真我を輝く光か何かのようなものとして見ることを望んでいる。
どうしてそうありえよう?
真我は光ではなく、暗闇でもない。
それはただあるがままに在る。
それを定義することはできない。
最もふさわしい定義は、「私は私であるものである」(I AM THAT I AM)だ。
シュルティ(聖典)は真我を親指大のもの、髪の毛の先、電気の閃光、広大
なもの、最微小より微小なものなどと記している。
それらには何の事実的根拠もない。
それはただ存在なのだ。(p21-22)
輝く光か何か
誰もが真我を知りたいと望んでいる。
自分自身を知るために、いったいどんな助けが必要だというのだろう?
人びとは何か新しいものとして真我を見たいと願っている。
だが真我は永遠不変に存在し続ける。
彼らは真我を輝く光か何かのようなものとして見ることを望んでいる。
どうしてそうありえよう?
真我は光ではなく、暗闇でもない。
それはただあるがままに在る。
それを定義することはできない。
最もふさわしい定義は、「私は私であるものである」(I AM THAT I AM)だ。
シュルティ(聖典)は真我を親指大のもの、髪の毛の先、電気の閃光、広大
なもの、最微小より微小なものなどと記している。
それらには何の事実的根拠もない。
それはただ存在なのだ。(p21-22)
真我 の 定義
真我は光ではなく、暗闇でもない。
それはただあるがままに在る。
それを定義することはできない。
最もふさわしい定義は、「私は私であるものである」(I AM THAT I AM)だ。
シュルティ(聖典)は真我を親指大のもの、髪の毛の先、電気の閃光、広大
なもの、最微小より微小なものなどと記している。
それらには何の事実的根拠もない。
それはただ存在なのだ。
だが実在や非実在とは異なる。
それは知識だ。
だが知識や無知とは異なる。
いったいどうやってそれを定義できるというのだろう?
それはただ存在なのである。(p21-22)
光と暗闇
人びとは何か新しいものとして真我を見たいと願っている。
だが真我は永遠不変に存在し続ける。
彼らは真我を輝く光か何かのようなものとして見ることを望んでいる。
どうしてそうありえよう?
真我は光ではなく、暗闇でもない。
それはただあるがままに在る。
それを定義することはできない。
最もふさわしい定義は、「私は私であるものである」(I AM THAT I AM)だ。
シュルティ(聖典)は真我を親指大のもの、髪の毛の先、電気の閃光、広大
なもの、最微小より微小なものなどと記している。
それらには何の事実的根拠もない。
それはただ存在なのだ。(p21-22)
それはただ存在
真我は永遠に存在している。
誰もが真我を知りたいと望んでいる。
自分自身を知るために、いったいどんな助けが必要だというのだろう?
人びとは何か新しいものとして真我を見たいと願っている。
だが真我は永遠不変に存在し続ける。
彼らは真我を輝く光か何かのようなものとして見ることを望んでいる。
どうしてそうありえよう?
真我は光ではなく、暗闇でもない。
それはただあるがままに在る。
それを定義することはできない。
最もふさわしい定義は、「私は私であるものである」(I AM THAT I AM)だ。
シュルティ(聖典)は真我を親指大のもの、髪の毛の先、電気の閃光、広大
なもの、最微小より微小なものなどと記している。
それらには何の事実的根拠もない。
それはただ存在なのだ。
だが実在や非実在とは異なる。
それは知識だ。
だが知識や無知とは異なる。
いったいどうやってそれを定義できるというのだろう?
それはただ存在なのである。(p21-22)
シュルティ(聖典)
真我は光ではなく、暗闇でもない。
それはただあるがままに在る。
それを定義することはできない。
最もふさわしい定義は、「私は私であるものである」(I AM THAT I AM)だ。
シュルティ(聖典)は真我を親指大のもの、髪の毛の先、電気の閃光、広大
なもの、最微小より微小なものなどと記している。
それらには何の事実的根拠もない。
それはただ存在なのだ。(p21-22)
何を見るのか
(真我を実現すると、人は何を見るのか、というなら)
そこに見るということはない。
見るということは、ただ在るということだ。
われわれが真我の実現と呼ぶ状態は、新たな何かを達成することではなく、
どこか遠い目的地に到達することでもない。
それはつねにあなたであるもの、そして今までずっとあなたであったものと
して、ただ在ることである。
あなたに必要なのは、ただ偽りを真実と見なすのをやめることだけだ。
われわれは皆、実在ではないものを実在だと見なしている。
ただこの習慣を放棄するだけでいい。
そうすれば、われわれは真我を真我として実現するだろう。
言い換えれば、「真我として在りなさい」ということである。
あまりにも明白な真我を発見しようと努力しているあなた自身を笑うときが、
いつかやってくるだろう。
だから、この質問に対していったい何が言えるというのだろう?
その境地は見る者も見られるものも超越する。
そこには何かを見ている見る者がいない。
それらすべてを今見ている見る者が存在を消し、そしてただ真我だけが残る
のである。(p22)
真我の実現B
われわれが真我の実現と呼ぶ状態は、新たな何かを達成することではなく、
どこか遠い目的地に到達することでもない。
それはつねにあなたであるもの、そして今までずっとあなたであったものと
して、ただ在ることである。
あなたに必要なのは、ただ偽りを真実と見なすのをやめることだけだ。
われわれは皆、実在ではないものを実在だと見なしている。
ただこの習慣を放棄するだけでいい。
そうすれば、われわれは真我を真我として実現するだろう。
言い換えれば、「真我として在りなさい」ということである。
あまりにも明白な真我を発見しようと努力しているあなた自身を笑うときが、
いつかやってくるだろう。
だから、この質問に対していったい何が言えるというのだろう?
その境地は見る者も見られるものも超越する。
そこには何かを見ている見る者がいない。
それらすべてを今見ている見る者が存在を消し、そしてただ真我だけが残る
のである。(p22)
必要なのは@
あなたに必要なのは、ただ偽りを真実と見なすのをやめることだけだ。
われわれは皆、実在ではないものを実在だと見なしている。
ただこの習慣を放棄するだけでいい。
そうすれば、われわれは真我を真我として実現するだろう。
言い換えれば、「真我として在りなさい」ということである。
あまりにも明白な真我を発見しようと努力しているあなた自身を笑うときが、
いつかやってくるだろう。(p22)
偽りを真実と見なす
われわれが真我の実現と呼ぶ状態は、新たな何かを達成することではなく、
どこか遠い目的地に到達することでもない。
それはつねにあなたであるもの、そして今までずっとあなたであったものと
して、ただ在ることである。
あなたに必要なのは、ただ偽りを真実と見なすのをやめることだけだ。
われわれは皆、実在ではないものを実在だと見なしている。
ただこの習慣を放棄するだけでいい。
そうすれば、われわれは真我を真我として実現するだろう。
言い換えれば、「真我として在りなさい」ということである。(p22)
見る者がいない
(真我の実現と呼ぶ)その境地は見る者も見られるものも超越する。
そこには何かを見ている見る者がいない。
それらすべてを今見ている見る者が存在を消し、そしてただ真我だけが残る
のである。(p22)
直接体験する
(どうすれば真我を直接体験することができるのか、というなら)
もしわれわれが自己を知るということについて語るとすれば、そこには二つ
の自己があることになる。
ひとりは知っている自己、もうひとりは知られる自己、そして知るという過
程がある。
われわれが真我の実現と呼ぶ状態は、ただ自分自身として在ることであり、
何かを知ることでも、何かに成ることでもない。
もし実現したなら、人は唯一存在するそれとして在り、唯一つねに存在しつ
づけてきたそれとして在る。
その状態を言い表すことはできない。
ただそれとして在ることができるだけだ。
もちろん、われわれは他に言葉がないため、真我の実現に関して漠然と語る。
いったいどうやって実在するものを実在させるというのだろう、あるいは
唯一「実在」なるものを「実在」にするというのだろうか?(p22-23)
自己を知る
(どうすれば真我を直接体験することができるのか、というなら)
もしわれわれが自己を知るということについて語るとすれば、そこには二つ
の自己があることになる。
ひとりは知っている自己、もうひとりは知られる自己、そして知るという過
程がある。
われわれが真我の実現と呼ぶ状態は、ただ自分自身として在ることであり、
何かを知ることでも、何かに成ることでもない。
もし実現したなら、人は唯一存在するそれとして在り、唯一つねに存在しつ
づけてきたそれとして在る。
その状態を言い表すことはできない。
ただそれとして在ることができるだけだ。
もちろん、われわれは他に言葉がないため、真我の実現に関して漠然と語る。
いったいどうやって実在するものを実在させるというのだろう、あるいは
唯一「実在」なるものを「実在」にするというのだろうか?(p22-23)
二つの自己@
(どうすれば真我を直接体験することができるのか、というなら)
もしわれわれが自己を知るということについて語るとすれば、そこには二つ
の自己があることになる。
ひとりは知っている自己、もうひとりは知られる自己、そして知るという過
程がある。
われわれが真我の実現と呼ぶ状態は、ただ自分自身として在ることであり、
何かを知ることでも、何かに成ることでもない。
もし実現したなら、人は唯一存在するそれとして在り、唯一つねに存在しつ
づけてきたそれとして在る。
その状態を言い表すことはできない。
ただそれとして在ることができるだけだ。
もちろん、われわれは他に言葉がないため、真我の実現に関して漠然と語る。
いったいどうやって実在するものを実在させるというのだろう、あるいは
唯一「実在」なるものを「実在」にするというのだろうか?(p22-23)
ただ自分自身として在ること
(どうすれば真我を直接体験することができるのか、というなら)
もしわれわれが自己を知るということについて語るとすれば、そこには二つ
の自己があることになる。
ひとりは知っている自己、もうひとりは知られる自己、そして知るという過
程がある。
われわれが真我の実現と呼ぶ状態は、ただ自分自身として在ることであり、
何かを知ることでも、何かに成ることでもない。
もし実現したなら、人は唯一存在するそれとして在り、唯一つねに存在しつ
づけてきたそれとして在る。
その状態を言い表すことはできない。
ただそれとして在ることができるだけだ。
もちろん、われわれは他に言葉がないため、真我の実現に関して漠然と語る。
いったいどうやって実在するものを実在させるというのだろう、あるいは
唯一「実在」なるものを「実在」にするというのだろうか?(p22-23)
実在させる
(どうすれば真我を直接体験することができるのか、というなら)
われわれが真我の実現と呼ぶ状態は、ただ自分自身として在ることであり、
何かを知ることでも、何かに成ることでもない。
もし実現したなら、人は唯一存在するそれとして在り、唯一つねに存在しつ
づけてきたそれとして在る。
その状態を言い表すことはできない。
ただそれとして在ることができるだけだ。
もちろん、われわれは他に言葉がないため、真我の実現に関して漠然と語る。
いったいどうやって実在するものを実在させるというのだろう、あるいは
唯一「実在」なるものを「実在」にするというのだろうか?(p23)
真我は沈黙
(あなたがときおり真我は沈黙であると語っているのはなぜか、というなら)
真我のなかで無心の美しさを生きる者にとって、考えるべきことは何ひとつ
ない。
なぜなら、その至高の状態のなかでは、真我以外に達成されるようなものは
何も存在しないからだ。(p23)
マウナ
(マウナ、沈黙とは何か、というなら)
会話と想念を超越した状態がマウナである。
存在するそれ、それがマウナである。
どうしてマウナを言葉で説明することができよう?
聖者たちは説いている。
「私」という想念(エゴ)がまったく起こることがない状態、それが沈黙
(マウナ)の真我(スワルーパ)である。
その沈黙の真我だけが神、真我だけがジーヴァ(個人)、真我だけが原初の
世界である。
それ以外の知識はみな、ささいな、取るに足らない知識であり、沈黙の体験
だけが真実の完全な知識なのである。
世界の客観的な多様性は実在ではなく、真の知識である真我の上に単に重ね
られたものにすぎない。(p23-24)
沈黙とは何か
(マウナ、沈黙とは何か、というなら)
会話と想念を超越した状態がマウナである。
存在するそれ、それがマウナである。
どうしてマウナを言葉で説明することができよう?
聖者たちは説いている。
「私」という想念(エゴ)がまったく起こることがない状態、それが沈黙
(マウナ)の真我(スワルーパ)である。
その沈黙の真我だけが神、真我だけがジーヴァ(個人)、真我だけが原初の
世界である。
それ以外の知識はみな、ささいな、取るに足らない知識であり、沈黙の体験
だけが真実の完全な知識なのである。
世界の客観的な多様性は実在ではなく、真の知識である真我の上に単に重ね
られたものにすぎない。(p23-24)
原初の世界
会話と想念を超越した状態がマウナである。
存在するそれ、それがマウナである。
どうしてマウナを言葉で説明することができよう?
聖者たちは説いている。
「私」という想念(エゴ)がまったく起こることがない状態、それが沈黙
(マウナ)の真我(スワルーパ)である。
その沈黙の真我だけが神、真我だけがジーヴァ(個人)、真我だけが原初の
世界である。
それ以外の知識はみな、ささいな、取るに足らない知識であり、沈黙の体験
だけが真実の完全な知識なのである。
世界の客観的な多様性は実在ではなく、真の知識である真我の上に単に重ね
られたものにすぎない。(p23-24)
沈黙の体験
「私」という想念(エゴ)がまったく起こることがない状態、それが沈黙
(マウナ)の真我(スワルーパ)である。
その沈黙の真我だけが神、真我だけがジーヴァ(個人)、真我だけが原初の
世界である。
それ以外の知識はみな、ささいな、取るに足らない知識であり、沈黙の体験
だけが真実の完全な知識なのである。
世界の客観的な多様性は実在ではなく、真の知識である真我の上に単に重ね
られたものにすぎない。(p23-24)
客観的な多様性
(マウナ、沈黙とは何か、というなら)
会話と想念を超越した状態がマウナである。
存在するそれ、それがマウナである。
どうしてマウナを言葉で説明することができよう?
聖者たちは説いている。
「私」という想念(エゴ)がまったく起こることがない状態、それが沈黙
(マウナ)の真我(スワルーパ)である。
その沈黙の真我だけが神、真我だけがジーヴァ(個人)、真我だけが原初の
世界である。
それ以外の知識はみな、ささいな、取るに足らない知識であり、沈黙の体験
だけが真実の完全な知識なのである。
世界の客観的な多様性は実在ではなく、真の知識である真我の上に単に重ね
られたものにすぎない。(p23-24)
身体 と 真我
(身体は無数に見られるのに、どうして真我はひとつだと言われるのか、と
いうなら)
「私は身体だ」という観念が受け入れられると、自己は多数となる。
この観念が消え去った状態が真我なのだ。
なぜなら、その状態のなかには他に何も存在しないからだ。
それゆえ、真我はひとつだと見なされるのである。
真我の本来の視野のなかに身体は存在せず、幻想の力に惑わされて外に向か
う心の視野のなかにだけ身体は存在している。
それゆえ、意識の空間である真我をデヒ(身体の所有者)と呼ぶのは誤りで
ある。(p24)
真我 と 身体
(身体は無数に見られるのに、どうして真我はひとつだと言われるのか、と
いうなら)
「私は身体だ」という観念が受け入れられると、自己は多数となる。
この観念が消え去った状態が真我なのだ。
なぜなら、その状態のなかには他に何も存在しないからだ。
それゆえ、真我はひとつだと見なされるのである。
真我の本来の視野のなかに身体は存在せず、幻想の力に惑わされて外に向か
う心の視野のなかにだけ身体は存在している。
それゆえ、意識の空間である真我をデヒ(身体の所有者)と呼ぶのは誤りで
ある。(p24)
デヒ(身体の所有者)
(身体は無数に見られるのに、どうして真我はひとつだと言われるのか、と
いうなら)
「私は身体だ」という観念が受け入れられると、自己は多数となる。
この観念が消え去った状態が真我なのだ。
なぜなら、その状態のなかには他に何も存在しないからだ。
それゆえ、真我はひとつだと見なされるのである。
真我の本来の視野のなかに身体は存在せず、幻想の力に惑わされて外に向か
う心の視野のなかにだけ身体は存在している。
それゆえ、意識の空間である真我をデヒ(身体の所有者)と呼ぶのは誤りで
ある。(p24)
意識の空間
(身体は無数に見られるのに、どうして真我はひとつだと言われるのか、と
いうなら)
「私は身体だ」という観念が受け入れられると、自己は多数となる。
この観念が消え去った状態が真我なのだ。
なぜなら、その状態のなかには他に何も存在しないからだ。
それゆえ、真我はひとつだと見なされるのである。
真我の本来の視野のなかに身体は存在せず、幻想の力に惑わされて外に向か
う心の視野のなかにだけ身体は存在している。
それゆえ、意識の空間である真我をデヒ(身体の所有者)と呼ぶのは誤りで
ある。(p24)
身体がなければ
身体がなければ世界は存在せず、心がなければ身体も存在しない。
意識がなければ心は存在せず、実在がなければ意識も存在しない。(p24)
自我が死に絶え
自己のなかに没入することで真我を知るに至った賢者にとって、真我以外に
知られるべきものは何ひとつ存在しない。
それはなぜか?
「私」としての身体と自己同化する自我が死に絶えたからである。
彼は無形の存在−意識なのだ。
ジニャーニ(真我を実現した者)は彼が真我であり、身体であろうと他の何
であろうと真我以外は何ひとつ存在しないことを知っている。
そのような人にとって、身体の存在あるいは不在がどんな違いをもたらすと
いうのだろう?(p24-25)
井戸のなかにある空間
真我の実現について語るのは誤りだ。
実現するような何がそこにあるというのだろう?
真理はつねにあるがままに在る。
われわれは新しい何かをつくり出しているのでもなければ、もっていなかっ
た何かを達成するわけでもない。
聖典が説明しているのはこのことである。
われわれは井戸を掘り、大きなくぼみをつくった。
くぼみあるいは井戸のなかにある空間は、われわれによってつくられたもの
ではない。
われわれはただ空間を満たしていた土を取り除いただけだ。
空間はもともとそこにあったし、今もそこにある。
同じように、われわれも長年つづいたサンスカーラ(心の潜在的傾向)を、
すべて捨て去らなければならないのだ。
それがすべて捨て去られれば、真我だけが輝きだすだろう。(p25)
土を取り除いた
真我の実現について語るのは誤りだ。
実現するような何がそこにあるというのだろう?
真理はつねにあるがままに在る。
われわれは新しい何かをつくり出しているのでもなければ、もっていなかっ
た何かを達成するわけでもない。
聖典が説明しているのはこのことである。
われわれは井戸を掘り、大きなくぼみをつくった。
くぼみあるいは井戸のなかにある空間は、われわれによってつくられたもの
ではない。
われわれはただ空間を満たしていた土を取り除いただけだ。
空間はもともとそこにあったし、今もそこにある。
同じように、われわれも長年つづいたサンスカーラ(心の潜在的傾向)を、
すべて捨て去らなければならないのだ。
それがすべて捨て去られれば、真我だけが輝きだすだろう。(p25)
解脱への願望
(どのようにして解脱(げだつ)を達成すればよいか、というなら)
解脱はわれわれの本性そのもの。
われわれはそれなのだ。
解脱への願望自体こそ、すべての束縛からの自由がわれわれの真の本性であ
ることを示している。
それは新たに獲得されるようなものではない。
必要なのは、われわれが束縛されているという誤った観念を追い払うことだ
けだ。
それを達成したとき、そこにはどんな類の想念も欲望もないだろう。
人が解脱を願っている間、そう思いこんでいる間は束縛されているのである。(p25-26)
束縛からの自由
(どのようにして解脱を達成すればよいか、というなら)
解脱はわれわれの本性そのもの。
われわれはそれなのだ。
解脱への願望自体こそ、すべての束縛からの自由がわれわれの真の本性であ
ることを示している。
それは新たに獲得されるようなものではない。
必要なのは、われわれが束縛されているという誤った観念を追い払うことだ
けだ。
それを達成したとき、そこにはどんな類の想念も欲望もないだろう。
人が解脱を願っている間、そう思いこんでいる間は束縛されているのである。(p25-26)
誤った観念
(どのようにして解脱を達成すればよいか、というなら)
解脱はわれわれの本性そのもの。
われわれはそれなのだ。
解脱への願望自体こそ、すべての束縛からの自由がわれわれの真の本性であ
ることを示している。
それは新たに獲得されるようなものではない。
必要なのは、われわれが束縛されているという誤った観念を追い払うことだ
けだ。
それを達成したとき、そこにはどんな類の想念も欲望もないだろう。
人が解脱を願っている間、そう思いこんでいる間は束縛されているのである。(p25-26)
目覚め、夢見、眠り
(真我を実現した人にとって、目覚め、夢見、眠りの三つの状態は存在しな
いというのは事実なのか、というなら)
何があなたに、「実現した人は三つの状態をもたない」と言わせるのだろう
か?
「私は夢を見た、私は深い眠りのなかにいた、私は目覚めた」と言うことで、
あなたは三つの状態すべてに存在していたことを認めることになる。
それは、あなたがつねにそこに存在していたことを明らかにしている。
もし今のままのあなたとしてあれば、あなたは目覚めの状態にいることにな
る。
夢見の状態のなかでは、目覚めの状態は隠されている。
そしてあなたが深い眠りの状態にいるとき、夢見の状態は消え去る。
あなたはそのときそこにいた。
あなたは今そこにいる。
あなたはつねにそこに存在している。
三つの状態が来ては去っていく。
だが、あなたはつねにそこにいる。(p26)
三つの状態
(真我を実現した人にとって、目覚め、夢見、眠りの三つの状態は存在しな
いというのは事実なのか、というなら)
何があなたに、「実現した人は三つの状態をもたない」と言わせるのだろう
か?
「私は夢を見た、私は深い眠りのなかにいた、私は目覚めた」と言うことで、
あなたは三つの状態すべてに存在していたことを認めることになる。
それは、あなたがつねにそこに存在していたことを明らかにしている。
もし今のままのあなたとしてあれば、あなたは目覚めの状態にいることにな
る。
夢見の状態のなかでは、目覚めの状態は隠されている。
そしてあなたが深い眠りの状態にいるとき、夢見の状態は消え去る。
あなたはそのときそこにいた。
あなたは今そこにいる。
あなたはつねにそこに存在している。
三つの状態が来ては去っていく。
だが、あなたはつねにそこにいる。
それはちょうど映画のようなものだ。
スクリーンはつねにそこにある。
だが、いくつかの画像がそこに現れ、そして消えていく。
スクリーンには何も残らないが、スクリーン自体は残る。
同じように、三つの状態すべてのなかで、あなたはあなた自身の真我として
とどまるのだ。(p26)
映画のようなもの@
(目覚め、夢見、眠りの)三つの状態が来ては去っていく。
だが、あなたはつねにそこにいる。
それはちょうど映画のようなものだ。
スクリーンはつねにそこにある。
だが、いくつかの画像がそこに現れ、そして消えていく。
スクリーンには何も残らないが、スクリーン自体は残る。
同じように、三つの状態すべてのなかで、あなたはあなた自身の真我として
とどまるのだ。
もしそれを知っていれば、画像がスクリーン上に跡を残さないように、三つ
の状態があなたに問題をもたらすこともないだろう。
ときおり、あなたはスクリーンの上に広大な海と限りない波を見る。
そしてそれは消え去っていく。
別のときに、あなたは周りじゅう火に囲まれているのを見る。
それもまた消え去っていく。
どちらの場合もスクリーンはそこに存在している。
はたしてそのスクリーンは水によって濡れただろうか、あるいは火によって
燃えただろうか?
何もスクリーに影響を与えることはなかった。
それと同じように、目覚め、夢見、深い眠りの状態のなかで起こったことが、
あなたに影響を与えことはまったくない。
あなたは真我としてとどまるのである。(p26-27)
スクリーン自体は
(目覚め、夢見、眠りの)三つの状態が来ては去っていく。
だが、あなたはつねにそこにいる。
それはちょうど映画のようなものだ。
スクリーンはつねにそこにある。
だが、いくつかの画像がそこに現れ、そして消えていく。
スクリーンには何も残らないが、スクリーン自体は残る。
同じように、三つの状態すべてのなかで、あなたはあなた自身の真我として
とどまるのだ。
もしそれを知っていれば、画像がスクリーン上に跡を残さないように、三つ
の状態があなたに問題をもたらすこともないだろう。
ときおり、あなたはスクリーンの上に広大な海と限りない波を見る。
そしてそれは消え去っていく。
別のときに、あなたは周りじゅう火に囲まれているのを見る。
それもまた消え去っていく。
どちらの場合もスクリーンはそこに存在している。
はたしてそのスクリーンは水によって濡れただろうか、あるいは火によって
燃えただろうか?
何もスクリーンに影響を与えることはなかった。
それと同じように、目覚め、夢見、深い眠りの状態のなかで起こったことが、
あなたに影響を与えことはまったくない。
あなたは真我としてとどまるのである。(p26-27)
ただひとつの状態@
(たとえ目覚め、夢見、深い眠りの三つの状態にあっても、それらが自分に
影響をあたえることはないのか、というなら)
そのとおりだ。
これらの状態はみな来ては去っていく。
だが、真我は惑わされない。
それはただひとつの状態なのである。(p27)
目撃者として
(真我である人は、単に目撃者としてこの世界に在るだけか、というなら)
そうだ。
このことからヴィディヤーランヤは、『パンチャダシー』の第十章で舞台上
の照明の例を取り上げている。
芝居が演じられている間、照明はそこにあり、王様であれ、召使であれ、踊
り子であれ、すべての役者たち、またすべての観客に区別なく光を照らして
いる。
芝居が始まる前、上演の最中、そして終わったあとにもその照明がそこにあ
るだろう。
それと同じように、真我である内なる照明は、自我、知性、記憶、そして想
念に光を与えながら、それ自体は増大することも減少することもない。
深い眠りや気絶の状態の間、そこに自我の感覚はないが、真我は属性をもた
ないままとどまり、それ自体で輝きつづけるのである。
実際には、真我が世界の目撃者としてあるという観念は心のなかにだけ存在
している。
それは真我における絶対的な真実ではない。
目撃者は目撃されている対象と相対的関係にある。
目撃者と目撃されるものはともに思考の産物なのである。(p27-28)
舞台上の照明
(真我である人は、単に目撃者としてこの世界に在るだけか、というなら)
そうだ。
このことからヴィディヤーランヤは、『パンチャダシー』の第十章で舞台上
の照明の例を取り上げている。
芝居が演じられている間、照明はそこにあり、王様であれ、召使であれ、踊
り子であれ、すべての役者たち、またすべての観客に区別なく光を照らして
いる。
芝居が始まる前、上演の最中、そして終わったあとにもその照明がそこにあ
るだろう。
それと同じように、真我である内なる照明は、自我、知性、記憶、そして想
念に光を与えながら、それ自体は増大することも減少することもない。
深い眠りや気絶の状態の間、そこに自我の感覚はないが、真我は属性をもた
ないままとどまり、それ自体で輝きつづけるのである。(p27)
内なる照明
(真我に在る人は、単に目撃者としてこの世界に在るだけか、というなら)
そうだ。
このことからヴィディヤーランヤは、『パンチャダシー』の第十章で舞台上
の照明の例を取り上げている。
芝居が演じられている間、照明はそこにあり、王様であれ、召使であれ、踊
り子であれ、すべての役者たち、またすべての観客に区別なく光を照らして
いる。
芝居が始まる前、上演の最中、そして終わったあとにもその照明がそこにあ
るだろう。
それと同じように、真我である内なる照明は、自我、知性、記憶、そして想
念に光を与えながら、それ自体は増大することも減少することもない。
深い眠りや気絶の状態の間、そこに自我の感覚はないが、真我は属性をもた
ないままとどまり、それ自体で輝きつづけるのである。(p27)
それ自体で輝き
(真我に在る人は、単に目撃者としてこの世界に在るだけか、というなら)
そうだ。
このことからヴィディヤーランヤは、『パンチャダシー』の第十章で舞台上
の照明の例を取り上げている。
芝居が演じられている間、照明はそこにあり、王様であれ、召使であれ、踊
り子であれ、すべての役者たち、またすべての観客に区別なく光を照らして
いる。
芝居が始まる前、上演の最中、そして終わったあとにもその照明がそこにあ
るだろう。
それと同じように、真我である内なる照明は、自我、知性、記憶、そして想
念に光を与えながら、それ自体は増大することも減少することもない。
深い眠りや気絶の状態の間、そこに自我の感覚はないが、真我は属性をもた
ないままとどまり、それ自体で輝きつづけるのである。(p27)
世界の目撃者
実際には、真我が世界の目撃者としてあるという観念は心のなかにだけ存在
している。
それは真我における絶対的な真実ではない。
目撃者は目撃されている対象と相対的関係にある。
目撃者と目撃されるものはともに思考の産物なのである。(p27-28)
思考の産物
実際には、真我が世界の目撃者としてあるという観念は心のなかにだけ存在
している。
それは真我における絶対的な真実ではない。
目撃者は目撃されている対象と相対的関係にある。
目撃者と目撃されるものはともに思考の産物なのである。(p27-28)
第四の状態(トゥリーヤ)
(意識の三つの状態は第四の状態(トゥリーヤ)と比較すると、どれほど実
在性の低い段階なのか、三つの状態と第四の状態との実際の関係は何なの
か、というなら)
ただひとつの状態だけが存在する。
それが意識、覚醒あるいは存在の状態である。
目覚め、夢見、深い眠りの三つの状態は実在ではありえない。
それらは単に来ては去っていくものである。
実在はつねに存在しつづける。
三つの状態すべてのなかに存在しつづける「私」あるいは存在だけが実在な
のである。
他の三つの状態は実在ではない。
それゆえ、それらにいくらかでも実在性の段階があると言うことはできない。
ただ、このようにおおまかに言うことはできるだろう。
存在または意識だけが唯一の実在である、と。
意識に目覚めの状態を加えたものを、われわれは目覚めと呼ぶ。
意識に眠りの状態を加えたものを、われわれは眠りと呼ぶ。
意識に夢見の状態を加えたものを、われわれは夢見と呼ぶ。
意識こそすべての画像がその上を去来するスクリーンなのだ。
スクリーンは実在であり、画像はその上の単なる影にすぎない。
われわれは長い間の習慣から三つの状態を実在と見なし、覚醒または意識の
状態を第四の状態と呼んでいる。
だが実際は、第四の状態というものは存在せず、ただひとつの状態があるだ
けである。(p28)
トゥリーヤ(第四の状態)
(意識の三つの状態は第四の状態(トゥリーヤ)と比較すると、どれほど実
在性の低い段階なのか、三つの状態と第四の状態との実際の関係は何なの
か、というなら)
ただひとつの状態だけが存在する。
それが意識、覚醒あるいは存在の状態である。
目覚め、夢見、深い眠りの三つの状態は実在ではありえない。
それらは単に来ては去っていくものである。
実在はつねに存在しつづける。
三つの状態すべてのなかに存在しつづける「私」あるいは存在だけが実在な
のである。
他の三つの状態は実在ではない。
それゆえ、それらにいくらかでも実在性の段階があると言うことはできない。
ただ、このようにおおまかに言うことはできるだろう。
存在または意識だけが唯一の実在である、と。
意識に目覚めの状態を加えたものを、われわれは目覚めと呼ぶ。
意識に眠りの状態を加えたものを、われわれは眠りと呼ぶ。
意識に夢見の状態を加えたものを、われわれは夢見と呼ぶ。
意識こそすべての画像がその上を去来するスクリーンなのだ。
スクリーンは実在であり、画像はその上の単なる影にすぎない。
われわれは長い間の習慣から三つの状態を実在と見なし、覚醒または意識の
状態を第四の状態と呼んでいる。
だが実際は、第四の状態というものは存在せず、ただひとつの状態があるだ
けである。(p28)
ただひとつの状態A
(意識の三つの状態は第四の状態(トゥリーヤ)と比較すると、どれほど実
在性の低い段階なのか、三つの状態と第四の状態との実際の関係は何なの
か、というなら)
ただひとつの状態だけが存在する。
それが意識、覚醒あるいは存在の状態である。
目覚め、夢見、深い眠りの三つの状態は実在ではありえない。
それらは単に来ては去っていくものである。
実在はつねに存在しつづける。
三つの状態すべてのなかに存在しつづける「私」あるいは存在だけが実在な
のである。
他の三つの状態は実在ではない。
それゆえ、それらにいくらかでも実在性の段階があると言うことはできない。
ただ、このようにおおまかに言うことはできるだろう。
存在または意識だけが唯一の実在である、と。
意識に目覚めの状態を加えたものを、われわれは目覚めと呼ぶ。
意識に眠りの状態を加えたものを、われわれは眠りと呼ぶ。
意識に夢見の状態を加えたものを、われわれは夢見と呼ぶ。
意識こそすべての画像がその上を去来するスクリーンなのだ。
スクリーンは実在であり、画像はその上の単なる影にすぎない。
われわれは長い間の習慣から三つの状態を実在と見なし、覚醒または意識の
状態を第四の状態と呼んでいる。
だが実際は、第四の状態というものは存在せず、ただひとつの状態があるだ
けである。(p28)
三つの状態は実在ではない
(意識の三つの状態は第四の状態(トゥリーヤ)と比較すると、どれほど実
在性の低い段階なのか、三つの状態と第四の状態との実際の関係は何なの
か、というなら)
ただひとつの状態だけが存在する。
それが意識、覚醒あるいは存在の状態である。
目覚め、夢見、深い眠りの三つの状態は実在ではありえない。
それらは単に来ては去っていくものである。
実在はつねに存在しつづける。
三つの状態すべてのなかに存在しつづける「私」あるいは存在だけが実在な
のである。
他の三つの状態は実在ではない。
それゆえ、それらにいくらかでも実在性の段階があると言うことはできない。
ただ、このようにおおまかに言うことはできるだろう。
存在または意識だけが唯一の実在である、と。
意識に目覚めの状態を加えたものを、われわれは目覚めと呼ぶ。
意識に眠りの状態を加えたものを、われわれは眠りと呼ぶ。
意識に夢見の状態を加えたものを、われわれは夢見と呼ぶ。
意識こそすべての画像がその上を去来するスクリーンなのだ。
スクリーンは実在であり、画像はその上の単なる影にすぎない。
われわれは長い間の習慣から三つの状態を実在と見なし、覚醒または意識の
状態を第四の状態と呼んでいる。
だが実際は、第四の状態というものは存在せず、ただひとつの状態があるだ
けである。(p28)
実在性の段階
(意識の三つの状態は第四の状態(トゥリーヤ)と比較すると、どれほど実
在性の低い段階なのか、三つの状態と第四の状態との実際の関係は何なの
か、というなら)
ただひとつの状態だけが存在する。
それが意識、覚醒あるいは存在の状態である。
目覚め、夢見、深い眠りの三つの状態は実在ではありえない。
それらは単に来ては去っていくものである。
実在はつねに存在しつづける。
三つの状態すべてのなかに存在しつづける「私」あるいは存在だけが実在な
のである。
他の三つの状態は実在ではない。
それゆえ、それらにいくらかでも実在性の段階があると言うことはできない。
ただ、このようにおおまかに言うことはできるだろう。
存在または意識だけが唯一の実在である、と。
意識に目覚めの状態を加えたものを、われわれは目覚めと呼ぶ。
意識に眠りの状態を加えたものを、われわれは眠りと呼ぶ。
意識に夢見の状態を加えたものを、われわれは夢見と呼ぶ。
意識こそすべての画像がその上を去来するスクリーンなのだ。
スクリーンは実在であり、画像はその上の単なる影にすぎない。
われわれは長い間の習慣から三つの状態を実在と見なし、覚醒または意識の
状態を第四の状態と呼んでいる。
だが実際は、第四の状態というものは存在せず、ただひとつの状態があるだ
けである。(p28)
何も知らない
夢は短く目覚めは長いということを除けば、夢見と目覚めの状態には何の違
いもない。
どちらも心の生みだしたものだ。
目覚めの状態のほうが長いために、われわれはそれを実在の状態だと想像し
ている。
だが実際には、つねにあるがままの状態であるトゥリーヤ、第四の状態がわ
れわれの真の状態なのだ。
トゥリーヤは目覚め、夢見、深い眠りという三つの状態のことを何も知らな
い。
われわれがこれら三つをアヴァスター(状態)と呼ぶため、第四の状態もま
たトゥリーヤ・アヴァスターと呼んでいる。
だがそれはアヴァスターではなく、真我の真の本性の状態なのである。
これが実現されたとき、われわれはそれがトゥリーヤではなく(なぜなら第
四の状態はただの相対的概念でしかないため)、トゥリーヤーティータ、超
越状態であることを知るのである。(p28-29)
真我の真の本性
夢は短く目覚めは長いということを除けば、夢見と目覚めの状態には何の違
いもない。
どちらも心の生みだしたものだ。
目覚めの状態のほうが長いために、われわれはそれを実在の状態だと想像し
ている。
だが実際には、つねにあるがままの状態であるトゥリーヤ、第四の状態がわ
れわれの真の状態なのだ。
トゥリーヤは目覚め、夢見、深い眠りという三つの状態のことを何も知らな
い。
われわれがこれら三つをアヴァスター(状態)と呼ぶため、第四の状態もま
たトゥリーヤ・アヴァスターと呼んでいる。
だがそれはアヴァスターではなく、真我の真の本性の状態なのである。
これが実現されたとき、われわれはそれがトゥリーヤではなく(なぜなら第
四の状態はただの相対的概念でしかないため)、トゥリーヤーティータ、超
越状態であることを知るのである。(p28-29)
トゥリーヤーティータ
夢は短く目覚めは長いということを除けば、夢見と目覚めの状態には何の違
いもない。
どちらも心の生みだしたものだ。
目覚めの状態のほうが長いために、われわれはそれを実在の状態だと想像し
ている。
だが実際には、つねにあるがままの状態であるトゥリーヤ、第四の状態がわ
れわれの真の状態なのだ。
トゥリーヤは目覚め、夢見、深い眠りという三つの状態のことを何も知らな
い。
われわれがこれら三つをアヴァスター(状態)と呼ぶため、第四の状態もま
たトゥリーヤ・アヴァスターと呼んでいる。
だがそれはアヴァスターではなく、真我の真の本性の状態なのである。
これが実現されたとき、われわれはそれがトゥリーヤではなく(なぜなら第
四の状態はただの相対的概念でしかないため)、トゥリーヤーティータ、超
越状態であることを知るのである。(p28-29)
超越状態
夢は短く目覚めは長いということを除けば、夢見と目覚めの状態には何の違
いもない。
どちらも心の生みだしたものだ。
目覚めの状態のほうが長いために、われわれはそれを実在の状態だと想像し
ている。
だが実際には、つねにあるがままの状態であるトゥリーヤ、第四の状態がわ
れわれの真の状態なのだ。
トゥリーヤは目覚め、夢見、深い眠りという三つの状態のことを何も知らな
い。
われわれがこれら三つをアヴァスター(状態)と呼ぶため、第四の状態もま
たトゥリーヤ・アヴァスターと呼んでいる。
だがそれはアヴァスターではなく、真我の真の本性の状態なのである。
これが実現されたとき、われわれはそれがトゥリーヤではなく(なぜなら第
四の状態はただの相対的概念でしかないため)、トゥリーヤーティータ、超
越状態であることを知るのである。(p28-29)
去来すると言う
(なぜこれら三つの状態は、実在あるいは真我のスクリーンの上を去来する
のか、というなら)
この質問をしているのは誰か?
三つの状態が去来すると真我が言うだろうか?
それらが去来すると言うのは見る者なのだ。
見る者と見られるものがともに心を構成している。
心と呼べるようなものが存在しているかどうか見てみなさい。
そうすれば、心は真我のなかに溶け去る。
そこには見る者も見られるものも存在しない。
それゆえあなたの質問に対する本当の答えとは、「それらは来ることも去る
こともない」である。
ただ真我だけが変わらず、あるがままに在る。
三つの状態はその存在を未探求に負っている。
深く探求していくと、三つの状態は消え去ってしまう。
いかに私が説明を重ねようとも、あなた自身が真我を実現して、疑いようも
なく明白な唯一の実在に対して今まで盲目であったことに自ら驚愕するまで、
真実が明らかになることはないだろう。(p29-30)
見る者
(なぜこれら三つの状態は、実在あるいは真我のスクリーンの上を去来する
のか、というなら)
この質問をしているのは誰か?
三つの状態が去来すると真我が言うだろうか?
それらが去来すると言うのは見る者なのだ。
見る者と見られるものがともに心を構成している。
心と呼べるようなものが存在しているかどうか見てみなさい。
そうすれば、心は真我のなかに溶け去る。
そこには見る者も見られるものも存在しない。
それゆえあなたの質問に対する本当の答えとは、「それらは来ることも去る
こともない」である。
ただ真我だけが変わらず、あるがままに在る。
三つの状態はその存在を未探求に負っている。
深く探求していくと、三つの状態は消え去ってしまう。
いかに私が説明を重ねようとも、あなた自身が真我を実現して、疑いようも
なく明白な唯一の実在に対して今まで盲目であったことに自ら驚愕するまで、
真実が明らかになることはないだろう。(p29-30)
本当の答え
(なぜこれら三つの状態は、実在あるいは真我のスクリーンの上を去来する
のか、というなら)
この質問をしているのは誰か?
三つの状態が去来すると真我が言うだろうか?
それらが去来すると言うのは見る者なのだ。
見る者と見られるものがともに心を構成している。
心と呼べるようなものが存在しているかどうか見てみなさい。
そうすれば、心は真我のなかに溶け去る。
そこには見る者も見られるものも存在しない。
それゆえあなたの質問に対する本当の答えとは、「それらは来ることも去る
こともない」である。(p29-30)
未探求に負っている
(なぜこれら三つの状態は、実在あるいは真我のスクリーンの上を去来する
のか、というなら)
この質問をしているのは誰か?
三つの状態が去来すると真我が言うだろうか?
それらが去来すると言うのは見る者なのだ。
見る者と見られるものがともに心を構成している。
心と呼べるようなものが存在しているかどうか見てみなさい。
そうすれば、心は真我のなかに溶け去る。
そこには見る者も見られるものも存在しない。
それゆえあなたの質問に対する本当の答えとは、「それらは来ることも去る
こともない」である。
ただ真我だけが変わらず、あるがままに在る。
三つの状態はその存在を未探求に負っている。
深く探求していくと、三つの状態は消え去ってしまう。
いかに私が説明を重ねようとも、あなた自身が真我を実現して、疑いようも
なく明白な唯一の実在に対して今まで盲目であったことに自ら驚愕するまで、
真実が明らかになることはないだろう。(p29-30)
心と真我の違い
(心と真我の違いは何か、というなら)
何の違いもない。
心が内側に向かえば真我であり、外側に向かえばそれは自我、そして世界と
なる。
綿からつくられたさまざまな衣服を、われわれはさまざまな名前で呼ぶ。
金からつくられたさまざまな宝飾品をわれわれはさまざまな名前で呼ぶ。
けれども、すべての衣服は綿であり、すべての宝飾品は金である。
実在はひとつであり、数多くあるのは単に名前と形でしかない。
だが、真我を離れて心は存在しない。
つまり、心はそれ自身の独立した存在をもっていない。
真我は心なしで存在するが、真我なしで心が存在することはないのである。(p30)
数多くあるのは
(心と真我の違いは何か、というなら)
何の違いもない。
心が内側に向かえば真我であり、外側に向かえばそれは自我、そして世界と
なる。
綿からつくられたさまざまな衣服を、われわれはさまざまな名前で呼ぶ。
金からつくられたさまざまな宝飾品をわれわれはさまざまな名前で呼ぶ。
けれども、すべての衣服は綿であり、すべての宝飾品は金である。
実在はひとつであり、数多くあるのは単に名前と形でしかない。
だが、真我を離れて心は存在しない。
つまり、心はそれ自身の独立した存在をもっていない。
真我は心なしで存在するが、真我なしで心が存在することはないのである。(p30)
真我は心なしで
(心と真我の違いは何か、というなら)
何の違いもない。
心が内側に向かえば真我であり、外側に向かえばそれは自我、そして世界と
なる。
綿からつくられたさまざまな衣服を、われわれはさまざまな名前で呼ぶ。
金からつくられたさまざまな宝飾品をわれわれはさまざまな名前で呼ぶ。
けれども、すべての衣服は綿であり、すべての宝飾品は金である。
実在はひとつであり、数多くあるのは単に名前と形でしかない。
だが、真我を離れて心は存在しない。
つまり、心はそれ自身の独立した存在をもっていない。
真我は心なしで存在するが、真我なしで心が存在することはないのである。(p30)
サット−チット−アーナンダ@
(ブラフマンはサット−チット−アーナンダ、存在−意識−至福だと言われ
るが、それはどういう意味か、というなら)
そのとおりだ。
存在するものはサット(存在)だけである。
それがブラフマンと呼ばれるものだ。
サットの光がチット(意識)であり、サットの本性がアーナンダ(至福)で
ある。
それらはサットと異なるものではない。
それら三つがひとつとなってサット−チット−アーナンダ、存在−意識−至
福として知られているのである。(p30)
存在−意識−至福
(ブラフマンはサット−チット−アーナンダ、存在−意識−至福だと言われ
るが、それはどういう意味か、というなら)
そのとおりだ。
存在するものはサット(存在)だけである。
それがブラフマンと呼ばれるものだ。
サットの光がチット(意識)であり、サットの本性がアーナンダ(至福)で
ある。
それらはサットと異なるものではない。
それら三つがひとつとなってサット−チット−アーナンダ、存在−意識−至
福として知られているのである。(p30)
知るべきものは
(真我は存在と意識であるのに、それが存在と非存在とは異なるもの、また
意識あるものと意識のないものとも異なるものとして描写されるのはどう
してか、というなら)
真我は存在であるが、それがすべてを含んでいるため、その存在や非存在と
いった二元性に関する疑問の余地はない。
それゆえ、それは存在、非存在とは異なると言われるのだ。
同じように、真我は意識であるが、真我自身にとって知るべきものは何もな
く、真我自身を知らしめるべきこともないため、それは意識あるもの、意識
のないものとは異なると言われるのである。(p30-31)
サット−チット−アーナンダA
サット−チット−アーナンダは、至高なるものが非存在(アサット)ではな
く、非意識(アチット)ではなく、非至福(アナーナンダ)ではないことを
示していると言われる。
われわれは現象界のなかにいるために、真我をサット−チット−アーナンダ
として語るのである。(p30-31)
唯一存在するもの
(なぜ私たちの真の本性が幸福あるいは至福だと言われるのか、というなら)
完全な至福がブラフマンなのだ。
完全な平和は真我に由来している。
唯一存在するもの、それが意識なのである。
幸福と呼ばれるもの、それが真我の唯一の本性である。
真我とは完全な幸福以外の何ものでもない。
幸福と呼ばれるそれだけが存在している。
その事実を知って真我の境地にとどまり、永遠の至福を享受しなさい。(p31)
幸福の原因
(なぜ私たちの真の本性が幸福あるいは至福だと言われるのか、というなら)
完全な至福がブラフマンなのだ。
完全な平和は真我に由来している。
唯一存在するもの、それが意識なのである。
幸福と呼ばれるもの、それが真我の唯一の本性である。
真我とは完全な幸福以外の何ものでもない。
幸福と呼ばれるそれだけが存在している。
その事実を知って真我の境地にとどまり、永遠の至福を享受しなさい。
もし外面的な原因や自分の所有するものが幸福の原因だと考えるなら、所有
するものが増えれば幸福も大きくなり、所有するものが減るにしたがって幸
福も少なくなると結論づけることは理にかなっていると言えるだろう。
そうすると、もし所有するものが無ければ、幸福はありえないはずである。
実際の体験ではどうだろう?
それはこの考えと一致しているだろうか?
深い眠りのなかで、人は自分の身体も含めて何も所有していない。
それにもかかわらず、不幸であるどころか、まったく幸せだ。
誰もがぐっすりと眠ることを望んでいる。
つまり幸福は本来人に備わったものであり、外的な原因によるものではない
ということである。
人に生来備わった純粋な幸福の扉を開くためには、真我を実現しなければな
らない。(p31-32)
純粋な幸福の扉
もし外面的な原因や自分の所有するものが幸福の原因だと考えるなら、所有
するものが増えれば幸福も大きくなり、所有するものが減るにしたがって幸
福も少なくなると結論づけることは理にかなっていると言えるだろう。
そうすると、もし所有するものが無ければ、幸福はありえないはずである。
実際の体験ではどうだろう?
それはこの考えと一致しているだろうか?
深い眠りのなかで、人は自分の身体も含めて何も所有していない。
それにもかかわらず、不幸であるどころか、まったく幸せだ。
誰もがぐっすりと眠ることを望んでいる。
つまり幸福は本来人に備わったものであり、外的な原因によるものではない
ということである。
人に生来備わった純粋な幸福の扉を開くためには、真我を実現しなければな
らない。(p31-32)
意識の座(中心)
(バガヴァーンはハートを意識の座(中心)と見なし、真我と同一であると
言われたが、ハートとは正確には何を意味するのか、というなら)
それは何と呼んでもいい。
神、ハート、意識の座、みな同じことである。
理解されるべき点は、ハートが存在の核心、中心という意味であること、そ
れなしには何も存在しないということである。
ハートとは身体的なものではなく、霊的なものである。
フリダヤムとはフリットとアヤムをたしたもので、それは「これが中心だ」
を意味している。
想念はそこから起こり、そこで存続し、そこへと消えていく。
想念とは心の内容であり、想念が宇宙を形づくっているのだ。
ハートはすべての中心だ。
生きるものたちが、そこから存在を現すものがブラフマンであると『ウパニ
シャッド』は説いている。
それがハートである。
ブラフマンこそがハートである。(p31-32)
ハートとは
(バガヴァーンはハートを意識の座(中心)と見なし、真我と同一であると
言われたが、ハートとは正確には何を意味するのか、というなら)
それは何と呼んでもいい。
神、ハート、意識の座、みな同じことである。
理解されるべき点は、ハートが存在の核心、中心という意味であること、そ
れなしには何も存在しないということである。
ハートとは身体的なものではなく、霊的なものである。
フリダヤムとはフリットとアヤムをたしたもので、それは「これが中心だ」
を意味している。
想念はそこから起こり、そこで存続し、そこへと消えていく。
想念とは心の内容であり、想念が宇宙を形づくっているのだ。
ハートはすべての中心だ。
生きるものたちが、そこから存在を現すものがブラフマンであると『ウパニ
シャッド』は説いている。
それがハートである。
ブラフマンこそがハートである。(p31-32)
存在の核心
(バガヴァーンはハートを意識の座(中心)と見なし、真我と同一であると
言われたが、ハートとは正確には何を意味するのか、というなら)
それは何と呼んでもいい。
神、ハート、意識の座、みな同じことである。
理解されるべき点は、ハートが存在の核心、中心という意味であること、そ
れなしには何も存在しないということである。
ハートとは身体的なものではなく、霊的なものである。
フリダヤムとはフリットとアヤムをたしたもので、それは「これが中心だ」
を意味している。
想念はそこから起こり、そこで存続し、そこへと消えていく。
想念とは心の内容であり、想念が宇宙を形づくっているのだ。
ハートはすべての中心だ。
生きるものたちが、そこから存在を現すものがブラフマンであると『ウパニ
シャッド』は説いている。
それがハートである。
ブラフマンこそがハートである。(p31-32)
フリダヤム
ハートとは身体的なものではなく、霊的なものである。
フリダヤムとはフリットとアヤムをたしたもので、それは「これが中心だ」
を意味している。
想念はそこから起こり、そこで存続し、そこへと消えていく。
想念とは心の内容であり、想念が宇宙を形づくっているのだ。
ハートはすべての中心だ。
生きるものたちが、そこから存在を現すものがブラフマンであると『ウパニ
シャッド』は説いている。
それがハートである。
ブラフマンこそがハートである。(p31-32)
真我がハート
(どのようにしてハートを認識するのか、というなら)
一瞬でさえ真我を体験しない人はいない。
なぜなら真我から離れたことがあると認める人は誰もいないからだ。
彼は真我であり、真我がハートなのである。
ハートとはそこからすべてが生じる中心である。
あなたが世界や身体などを見るため、それらにはハートと呼ばれる中心があ
ると言われる。
あなたがハートのなかに在るとき、ハートは中心でも周辺でもないというこ
とを知るだろう。
ハートから離れて存在するものは何ひとつないからである。
真我以外のものを知ろうと外へさ迷い出ていくことのない、真の存在である
意識、それがハートである。
真我の真理はただ活動のない意識によってのみ知られるため、ただ真我にだ
け注意を注ぎつづける意識こそが純粋な知識の輝きなのである。(p32-33)
ハートから離れて
ハートとはそこからすべてが生じる中心である。
あなたが世界や身体などを見るため、それらにはハートと呼ばれる中心があ
ると言われる。
あなたがハートのなかに在るとき、ハートは中心でも周辺でもないというこ
とを知るだろう。
ハートから離れて存在するものは何ひとつないからである。
真我以外のものを知ろうと外へさ迷い出ていくことのない、真の存在である
意識、それがハートである。
真我の真理はただ活動のない意識によってのみ知られるため、ただ真我にだ
け注意を注ぎつづける意識こそが純粋な知識の輝きなのである。(p32-33)
活動のない意識
真我以外のものを知ろうと外へさ迷い出ていくことのない、真の存在である
意識、それがハートである。
真我の真理はただ活動のない意識によってのみ知られるため、ただ真我にだ
け注意を注ぎつづける意識こそが純粋な知識の輝きなのである。(p32-33)
純粋な知識の輝き
真我以外のものを知ろうと外へさ迷い出ていくことのない、真の存在である
意識、それがハートである。
真我の真理はただ活動のない意識によってのみ知られるため、ただ真我にだ
け注意を注ぎつづける意識こそが純粋な知識の輝きなのである。(p32-33)
真我の実現@
(どうすれば真我を実現できるのか、というなら)
真我の実現とは新たに獲得されるような何かではない。
それはすでにそこに在る。
必要なのは、「私は実現していない」という想念を追い払うことだけだ。
静寂あるいは平安が真我の実現である。
真我が存在しない瞬間はない。
そこに疑いや自分は実現していないという感覚があるかぎり、それらの想念
を追い払うように試みなければならないだろう。
それらの想いは真我と非真我を同一視することによって起こる。
非真我が消え去ったとき、真我だけが残る。
空間をつくり出すには物を取り除くだけでじゅうぶんであり、どこか他のと
ころから空間を持ちこむ必要などないからだ。(p35)
想念を追い払う
(どうすれば真我を実現できるのか、というなら)
真我の実現とは新たに獲得されるような何かではない。
それはすでにそこに在る。
必要なのは、「私は実現していない」という想念を追い払うことだけだ。
静寂あるいは平安が真我の実現である。
真我が存在しない瞬間はない。
そこに疑いや自分は実現していないという感覚があるかぎり、それらの想念
を追い払うように試みなければならないだろう。
それらの想いは真我と非真我を同一視することによって起こる。
非真我が消え去ったとき、真我だけが残る。
空間をつくり出すには物を取り除くだけでじゅうぶんであり、どこか他のと
ころから空間を持ちこむ必要などないからだ。(p35)
真我 と 非真我
静寂あるいは平安が真我の実現である。
真我が存在しない瞬間はない。
そこに疑いや自分は実現していないという感覚があるかぎり、それらの想念
を追い払うように試みなければならないだろう。
それらの想いは真我と非真我を同一視することによって起こる。
非真我が消え去ったとき、真我だけが残る。
空間をつくり出すには物を取り除くだけでじゅうぶんであり、どこか他のと
ころから空間を持ちこむ必要などないからだ。(p35)
ヴァーサナー(心の潜在的傾向)
(ヴァーサナー(心の潜在的傾向)の破壊なしに真我の実現は不可能だが、
それが完全に破壊された状態に至るにはどうすればよいか?)
あなたは今、その状態にある。
(それは真我を想いつづけることでヴァーサナーが起こると同時に破壊する
べきだということか?)
もし、あなたがあるがままのあなたとしてとどまれば、ヴァーサナーはおの
ずから破壊されることだろう。(p36)
真我に到達する@
(どのようにして真我に到達すればよいのか、というなら)
真我に到達するというようなことはない。
もし真我が到達されるようなものなら、それは今ここにはなく、未来に獲得
されるべき何かを意味する。
新たに得られたものは、やがて失われるだろう。
それゆえ、それは永遠のものではない。
永遠のものでないなら、そのために努力する価値はない。
だから私は、真我は到達されないと言うのだ。
あなたは真我である。
あなたはすでにそれなのである。(p36)
あなたは真我
あなたは真我である。
あなたはすでにそれなのである。
事実は、あなたが自分の至福に満ちた状態に無知だということだ。
無知は次から次へと起こり、至福である純粋な真我にヴェールをかけてしま
う。
ただ誤った知識である無知のヴェールを剥(は)ぐことだけを試みればよい。
誤った知識とは、真我を身体や心と同一視することにある。
この偽りの同一視がなくならなければならない。
そうすれば、ただ真我だけが残る。
それゆえ、真我の実現はすべての人のものである。
真我の実現は、それを願う人びとの間にどんな差別もつけない。
実現できるかどうかという疑い、そして「私は実現していない」という観念
そのものが障害なのだ。
このような障害からも自由になりなさい。(p36-37)
誤った知識A
あなたは真我である。
あなたはすでにそれなのである。
事実は、あなたが自分の至福に満ちた状態に無知だということだ。
無知は次から次へと起こり、至福である純粋な真我にヴェールをかけてしま
う。
ただ誤った知識である無知のヴェールを剥(は)ぐことだけを試みればよい。
誤った知識とは、真我を身体や心と同一視することにある。
この偽りの同一視がなくならなければならない。
そうすれば、ただ真我だけが残る。
それゆえ、真我の実現はすべての人のものである。
真我の実現は、それを願う人びとの間にどんな差別もつけない。
実現できるかどうかという疑い、そして「私は実現していない」という観念
そのものが障害なのだ。
このような障害からも自由になりなさい。(p36-37)
無知のヴェール
あなたは真我である。
あなたはすでにそれなのである。
事実は、あなたが自分の至福に満ちた状態に無知だということだ。
無知は次から次へと起こり、至福である純粋な真我にヴェールをかけてしま
う。
ただ誤った知識である無知のヴェールを剥(は)ぐことだけを試みればよい。
誤った知識とは、真我を身体や心と同一視することにある。
この偽りの同一視がなくならなければならない。
そうすれば、ただ真我だけが残る。(p36-37)
偽りの同一視@
あなたは真我である。
あなたはすでにそれなのである。
事実は、あなたが自分の至福に満ちた状態に無知だということだ。
無知は次から次へと起こり、至福である純粋な真我にヴェールをかけてしま
う。
ただ誤った知識である無知のヴェールを剥(は)ぐことだけを試みればよい。
誤った知識とは、真我を身体や心と同一視することにある。
この偽りの同一視がなくならなければならない。
そうすれば、ただ真我だけが残る。(p36-37)
真我の実現C
誤った知識とは、真我を身体や心と同一視することにある。
この偽りの同一視がなくならなければならない。
そうすれば、ただ真我だけが残る。
それゆえ、真我の実現はすべての人のものである。
真我の実現は、それを願う人びとの間にどんな差別もつけない。
実現できるかどうかという疑い、そして「私は実現していない」という観念
そのものが障害なのだ。
このような障害からも自由になりなさい。(p37)
障害
誤った知識とは、真我を身体や心と同一視することにある。
この偽りの同一視がなくならなければならない。
そうすれば、ただ真我だけが残る。
それゆえ、真我の実現はすべての人のものである。
真我の実現は、それを願う人びとの間にどんな差別もつけない。
実現できるかどうかという疑い、そして「私は実現していない」という観念
そのものが障害なのだ。
このような障害からも自由になりなさい。(p37)
ムクティ(解脱:げだつ)@
(ムクティ(解脱)に達するまでどのくらい時間がかかるか、というなら)
ムクティとは未来に得られるような何かではない。
それは永遠に今ここにある。
(そのとおりだが、自分はそれを体験していない、というなら)
体験は今ここにある。
人は自分自身の真我を否定することはできない。(p37)
解脱(げだつ:ムクティ)
(ムクティ(解脱)に達するまでどのくらい時間がかかるか、というなら)
ムクティとは未来に得られるような何かではない。
それは永遠に今ここにある。
(そのとおりだが、自分はそれを体験していないのです、というなら)
体験は今ここにある。
人は自分自身の真我を否定することはできない。(p37)
存在 と 幸福
(それは存在を意味するが、幸福を意味してはいない、というなら)
存在は幸福と同じであり、幸福は存在と同じである。
ムクティ(解脱)という言葉は非常に魅惑的だ。
人はなぜ探求するのだろうか?
そこに束縛があると信じるために解脱を探し求めるのである。
だが事実は、そこに束縛はなく、ただ解脱だけがある。
なぜそれを解脱と名づけておいて、それから探しに出かけるのだろうか?(p37)
束縛 と 解脱
存在は幸福と同じであり、幸福は存在と同じである。
ムクティという言葉は非常に魅惑的だ。
人はなぜ探求するのだろうか?
そこに束縛があると信じるために解脱を探し求めるのである。
だが事実は、そこに束縛はなく、ただ解脱だけがある。
なぜそれを解脱と名づけておいて、それから探しに出かけるのだろうか?(p37)
解脱だけがある
存在は幸福と同じであり、幸福は存在と同じである。
ムクティ(解脱)という言葉は非常に魅惑的だ。
人はなぜ探求するのだろうか?
そこに束縛があると信じるために解脱を探し求めるのである。
だが事実は、そこに束縛はなく、ただ解脱だけがある。
なぜそれを解脱と名づけておいて、それから探しに出かけるのだろうか?(p37)
束縛からの解放
ただ無知を取り除きなさい。
するべきことはそれだけだ。
ムクティ(解脱)に関する疑問はどれも認めがたい。
ムクティが束縛からの解放を意味しているため、それは束縛の存在も暗示し
ている。
だが束縛は存在せず、それゆえムクティもまたありえないのである。(p37-38)
宇宙意識の閃光
(宇宙意識の閃光として描写される真我の実現とはどのようなものか、
というなら)
それは閃光として現れ、閃光として消え去った。
始まりのあるものには終わりがなければならない。
永遠の意識が実現されたときにだけ、それは永久的なものとなる。
実際、意識はつねにわれわれとともに在る。
誰もが「私は在る」(I AM)ということを知っている。
誰も自分の存在を否定することはできない。
深い眠りのなかにいる人は気づいていないが、目が覚めている間は気づいて
いるように見える。
だが、それは同じ人なのだ。
眠っていた人と現在目を覚ましている人の間に変化はない。
深い眠りのなかでは、彼は身体に気づいていなかった。
そのため、そこには身体意識がなかった。
目覚めの状態では、彼は身体に気づいている。
それゆえ、そこには身体意識がある。
つまり、違いは身体意識の出現にあるだけで、実際の意識のなかには何の変
化もない。(p38)
永遠の意識
(宇宙意識の閃光として描写される真我の実現とはどのようなものか、とい
うなら)
それは閃光として現れ、閃光として消え去った。
始まりのあるものには終わりがなければならない。
永遠の意識が実現されたときにだけ、それは永久的なものとなる。
実際、意識はつねにわれわれとともに在る。
誰もが「私は在る」(I AM)ということを知っている。
誰も自分の存在を否定することはできない。
深い眠りのなかにいる人は気づいていないが、目が覚めている間は気づいて
いるように見える。
だが、それは同じ人なのだ。
眠っていた人と現在目を覚ましている人の間に変化はない。
深い眠りのなかでは、彼は身体に気づいていなかった。
そのため、そこには身体意識がなかった。
目覚めの状態では、彼は身体に気づいている。
それゆえ、そこには身体意識がある。
つまり、違いは身体意識の出現にあるだけで、実際の意識のなかには何の変
化もない。(p38)
自分の存在
実際、意識はつねにわれわれとともに在る。
誰もが「私は在る」(I AM)ということを知っている。
誰も自分の存在を否定することはできない。
深い眠りのなかにいる人は気づいていないが、目が覚めている間は気づいて
いるように見える。
だが、それは同じ人なのだ。
眠っていた人と現在目を覚ましている人の間に変化はない。
深い眠りのなかでは、彼は身体に気づいていなかった。
そのため、そこには身体意識がなかった。
目覚めの状態では、彼は身体に気づいている。
それゆえ、そこには身体意識がある。
つまり、違いは身体意識の出現にあるだけで、実際の意識のなかには何の変
化もない。(p38)
身体意識の出現
永遠の意識が実現されたときにだけ、それは永久的なものとなる。
実際、意識はつねにわれわれとともに在る。
誰もが「私は在る」(I AM)ということを知っている。
誰も自分の存在を否定することはできない。
深い眠りのなかにいる人は気づいていないが、目が覚めている間は気づいて
いるように見える。
だが、それは同じ人なのだ。
眠っていた人と現在目を覚ましている人の間に変化はない。
深い眠りのなかでは、彼は身体に気づいていなかった。
そのため、そこには身体意識がなかった。
目覚めの状態では、彼は身体に気づいている。
それゆえ、そこには身体意識がある。
つまり、違いは身体意識の出現にあるだけで、実際の意識のなかには何の変
化もない。(p37-38)
身体 と 身体意識
身体と身体意識はともに立ち現れ、ともに消え去る。
つまり深い眠りのなかには身体意識がないため限界がなく、目覚めの状態に
は限界があると言えるだろう。
この限界が束縛だ。
「この身体が『私』だ」という感覚が誤りなのである。
この「私」という偽りの感覚が去らなければならない。
真実の「私」はつねに存在する。
それは今、ここに在る。
それはけっして新たに現れるわけではなく、再び消え去ることもない。
存在するものは永遠に在るだろう。
新たに現れるものはやがて失われるだろう。
深い眠りと目覚めの状態を比較してみなさい。
目覚めの状態のなかでは身体が現れ、眠りの状態のなかでは身体は存在しな
い。
それゆえ、ひとたび現れた身体は消え去るだろう。
意識は身体以前から存在していた。
そしてそれは身体が去ったあとも残るだろう。(p38-39)
目覚めの状態@
身体と身体意識はともに立ち現れ、ともに消え去る。
つまり深い眠りのなかには身体意識がないため限界がなく、目覚めの状態に
は限界があると言えるだろう。
この限界が束縛だ。
「この身体が『私』だ」という感覚が誤りなのである。
この「私」という偽りの感覚が去らなければならない。
真実の「私」はつねに存在する。
それは今、ここに在る。
それはけっして新たに現れるわけではなく、再び消え去ることもない。
存在するものは永遠に在るだろう。
新たに現れるものはやがて失われるだろう。
深い眠りと目覚めの状態を比較してみなさい。
目覚めの状態のなかでは身体が現れ、眠りの状態のなかでは身体は存在しな
い。
それゆえ、ひとたび現れた身体は消え去るだろう。
意識は身体以前から存在していた。
そしてそれは身体が去ったあとも残るだろう。(p38-39)
真実の「私」@
「この身体が『私』だ」という感覚が誤りなのである。
この「私」という偽りの感覚が去らなければならない。
真実の「私」はつねに存在する。
それは今、ここに在る。
それはけっして新たに現れるわけではなく、再び消え去ることもない。
存在するものは永遠に在るだろう。
新たに現れるものはやがて失われるだろう。
深い眠りと目覚めの状態を比較してみなさい。
目覚めの状態のなかでは身体が現れ、眠りの状態のなかでは身体は存在しな
い。
それゆえ、ひとたび現れた身体は消え去るだろう。
意識は身体以前から存在していた。
そしてそれは身体が去ったあとも残るだろう。(p38-39)
意識 と 身体
意識は身体以前から存在していた。
そしてそれは身体が去ったあとも残るだろう。(p39)
「私は身体だ」
「私は在る」と言わない人はいない。
「私は身体だ」という誤った知識がすべての災いの原因だ。
この誤った知識が去らなければならない。
それが真我の実現である。
真我の実現とは何か新しいものの獲得ではなく、新たな能力でもない。
それはただすべての偽装を剥ぎとったものなのである。(p39)
誤った知識@
「私は在る」と言わない人はいない。
「私は身体だ」という誤った知識がすべての災いの原因だ。
この誤った知識が去らなければならない。
それが真我の実現である。
真我の実現とは何か新しいものの獲得ではなく、新たな能力でもない。
それはただすべての偽装を剥ぎとったものなのである。(p39)
真我の実現A
「私は在る」と言わない人はいない。
「私は身体だ」という誤った知識がすべての災いの原因だ。
この誤った知識が去らなければならない。
それが真我の実現である。
真我の実現とは何か新しいものの獲得ではなく、新たな能力でもない。
それはただすべての偽装を剥ぎとったものなのである。
究極の真理はとてもシンプルだ。
それは純粋無垢(むく)な状態のなかに在ること以外の何ものでもない。
それが語られるべきすべてである。(p39)
究極の真理
「私は在る」と言わない人はいない。
「私は身体だ」という誤った知識がすべての災いの原因だ。
この誤った知識が去らなければならない。
それが真我の実現である。
真我の実現とは何か新しいものの獲得ではなく、新たな能力でもない。
それはただすべての偽装を剥ぎとったものなのである。
究極の真理はとてもシンプルだ。
それは純粋無垢(むく)な状態のなかに在ること以外の何ものでもない。
それが語られるべきすべてである。(p39)
眠り、夢見、目覚め
(人は目覚めの状態よりも深い眠りのなかにいるとき、より純粋意識の状態
に近いのか、というなら)
眠り、夢見、目覚めの状態は、不動の真我の上に現れた単なる現象にすぎな
い。
真我は純粋な覚醒の状態でもある。
誰であれ、一瞬でも真我から離れて在ることができるだろうか?
それが可能だとすればこの質問も起こりうるだろうが、それはありえない。(p39)
純粋意識の状態@
(人は目覚めの状態よりも深い眠りのなかにいるとき、より純粋意識の状態
に近いと言われるのではないか、というなら)
その質問は、「目覚めの状態よりも深い眠りのなかにいるとき、私は私自身
により近いのでしょうか?」と言ってもよいだろう。
真我とは純粋な意識である。
誰も真我から離れて在ることはできない。
そこに二元性があるときだけ、その質問が可能なのだ。
だが、純粋意識の状態のなかに二元性はない。(p39-40)
眠り と 目覚め
(眠りのなかに存在するあなたが、今ここで目覚めているその同じ人である
ことを認めるというなら)
つまり眠りと目覚めの状態には継続性があるということだ。
その継続性とは何だろう?
それが純粋な存在状態である。
二つの状態には違いがある。
何がその違いだろう?
出来事、つまり身体、世界、ものごとは目覚めの状態のなかには現れるが、
眠りのなかでは消え去るのである。(p40)
継続性
(眠りのなかに存在するあなたが、今ここで目覚めているその同じ人である
ことを認めるというなら)
つまり眠りと目覚めの状態には継続性があるということだ。
その継続性とは何だろう?
それが純粋な存在状態である。
二つの状態には違いがある。
何がその違いだろう?
出来事、つまり身体、世界、ものごとは目覚めの状態のなかには現れるが、
眠りのなかでは消え去るのである。(p40)
眠りのなかでは@
(眠りのなかで自分は気づいていなかった、というなら)
確かに、眠りのなかでは身体や世界に気づいていない。
だが、今「眠りのなかで私は気づいていなかった」と言うためには、眠りの
なかにあなたが存在していなければならない。
今、それを言うのは誰だろうか?
それは目を覚ました人である。
眠っている人がそう言うことはできない。
ということは、真我と身体と同一視している個人が、眠りの間そのような自
覚はなかったと言うのである。(p40-41)
存在の感覚
あなたは自分自身と身体を同一視するために、あなたのまわりに世界を見て、
それから目覚めの状態は美しいものや興味深いものでいっぱいだと言うのだ。
眠りの状態は退屈なように見える。
なぜならあなたがそこに個人として存在せず、それゆえ、それらのものもそ
こにないからである。
しかし、事実はどうだろう?
三つの状態すべてのなかに存在の感覚は継続しているが、個人やものごとの
継続性はそこにはないのである。(p41)
継続するもの
継続するものは不変であり、永続する。
断続的なものは一時的なものである。
それゆえ、存在の状態は永久的であり、身体や世界は一時的なものである。
それらは不変不滅の存在−意識のスクリーン上を通り過ぎるつかの間の現象
にすぎない。(p41)
断続的 と 一時的
継続するものは不変であり、永続する。
断続的なものは一時的なものである。
それゆえ、存在の状態は永久的であり、身体や世界は一時的なものである。
それらは不変不滅の存在−意識のスクリーン上を通り過ぎるつかの間の現象
にすぎない。(p41)
意識のスクリーン
継続するものは不変であり、永続する。
断続的なものは一時的なものである。
それゆえ、存在の状態は永久的であり、身体や世界は一時的なものである。
それらは不変不滅の存在−意識のスクリーン上を通り過ぎるつかの間の現象
にすぎない。(p41)
存在−意識のスクリーン
継続するものは不変であり、永続する。
断続的なものは一時的なものである。
それゆえ、存在の状態は永久的であり、身体や世界は一時的なものである。
それらは不変不滅の存在−意識のスクリーン上を通り過ぎるつかの間の現象
にすぎない。(p41)
眠りの状態
(比較して言えば、目覚めの状態よりも深い眠りの状態のほうが、より純粋
意識の状態に近いのではないか、というなら)
その意味においては、そうである。
眠りから目覚めへと移行するとき、「私」という想念(個我)が立ち現れ、
心が活動しはじめる。
それからあらゆる類の想念がつづき、身体の機能が作用しはじめる。
これらのすべてが我々に目覚めたと言わせるのである。
このような展開すべての不在が眠りの特徴であり、それゆえ、目覚めの状態
よりも純粋意識の状態に近いと言えるのである。
しかし、だからといってつねに眠りのなかにいることを望んではならない。
第一に、それは不可能だ。
それは他の状態と必然的に交替しなければならないのである。
第二に、それは真我を実現したジニャーニがいる至福の状態ではない。
なぜなら彼の状態は永久的で不変のものだからである。
しかも、眠りの状態は人びとから覚醒の状態として認識されてはいない。
だが、賢者は眠りの状態でもつねに気づいている。
それゆえ、眠りの状態は賢者が確立した境地とは異なったものなのである。
さらに、眠りの状態は個人的観念や印象から自由だ。
その状態を人の意志によって交替させることはできない。
なぜならその状態のなかでは、努力は不可能だからである。
純粋意識により近い状態でありながら、眠りの状態は真我を実現するための
努力と相容れないものなのである。(p41-42)
目覚めと深い眠り
(比較して言えば、目覚めの状態よりも深い眠りの状態のほうが、より純粋
意識の状態に近いのではないか、というなら)
その意味においては、そうである。
眠りから目覚めへと移行するとき、「私」という想念(個我)が立ち現れ、
心が活動しはじめる。
それからあらゆる類の想念がつづき、身体の機能が作用しはじめる。
これらのすべてが我々に目覚めたと言わせるのである。
このような展開すべての不在が眠りの特徴であり、それゆえ、目覚めの状態
よりも純粋意識の状態に近いと言えるのである。
しかし、だからといってつねに眠りのなかにいることを望んではならない。
第一に、それは不可能だ。
それは他の状態と必然的に交替しなければならないのである。
第二に、それは真我を実現したジニャーニがいる至福の状態ではない。
なぜなら彼の状態は永久的で不変のものだからである。
しかも、眠りの状態は人びとから覚醒の状態として認識されてはいない。
だが、賢者は眠りの状態でもつねに気づいている。
それゆえ、眠りの状態は賢者が確立した境地とは異なったものなのである。
さらに、眠りの状態は個人的観念や印象から自由だ。
その状態を人の意志によって交替させることはできない。
なぜならその状態のなかでは、努力は不可能だからである。
純粋意識により近い状態でありながら、眠りの状態は真我を実現するための
努力と相容れないものなのである。(p41-42)
純粋意識の状態A
(比較して言えば、目覚めの状態よりも深い眠りの状態のほうが、より純粋
意識の状態に近いのではないか、というなら)
その意味においては、そうである。
眠りから目覚めへと移行するとき、「私」という想念(個我)が立ち現れ、
心が活動しはじめる。
それからあらゆる類の想念がつづき、身体の機能が作用しはじめる。
これらすべてがわれわれに目覚めたと言わせるのである。
このような展開すべての不在が眠りの特徴であり、それゆえ、目覚めの状態
よりも純粋意識の状態に近いと言えるのである。
しかし、だからといってつねに眠りのなかにいることを望んではならない。
第一に、それは不可能だ。
それは他の状態と必然的に交替しなければならないからである。
第二に、それは真我を実現したジニャーニがいる至福の状態ではない。
なぜなら彼の状態は永久的で、不変のものだからである。
しかも、眠りの状態は人びとから覚醒の状態として認識されてはいない。
だが、賢者は眠りの状態でもつねに気づいている。
それゆえ、眠りの状態は賢者が確立した境地とは異なったものなのである。
さらに、眠りの状態は個人的想念や印象から自由だ。
その状態を人の意志によって交替させることはできない。
なぜならその状態のなかでは、努力は不可能だからである。
純粋意識により近い状態でありながら、眠りの状態は真我を実現するための
努力と相容れないものなのである。(p41-42)
つねに眠りのなかに
このような展開すべての不在が眠りの特徴であり、それゆえ、目覚めの状態
よりも純粋意識の状態に近いと言えるのである。
しかし、だからといってつねに眠りのなかにいることを望んではならない。
第一に、それは不可能だ。
それは他の状態と必然的に交替しなければならないのである。
第二に、それは真我を実現したジニャーニがいる至福の状態ではない。
なぜなら彼の状態は永久的で不変のものだからである。
しかも、眠りの状態は人びとから覚醒の状態として認識されてはいない。
だが、賢者は眠りの状態でもつねに気づいている。
それゆえ、眠りの状態は賢者が確立した境地とは異なったものなのである。
さらに、眠りの状態は個人的観念や印象から自由だ。
その状態を人の意志によって交替させることはできない。
なぜならその状態のなかでは、努力は不可能だからである。
純粋意識により近い状態でありながら、眠りの状態は真我を実現するための
努力と相容れないものなのである。(p42)
眠り と 至福
しかし、だからといってつねに眠りのなかにいることを望んではならない。
第一に、それは不可能だ。
それは他の状態と必然的に交替しなければならないのである。
第二に、それは真我を実現したジニャーニがいる至福の状態ではない。
なぜなら彼の状態は永久的で不変のものだからである。
しかも、眠りの状態は人びとから覚醒の状態として認識されてはいない。
だが、賢者は眠りの状態でもつねに気づいている。
それゆえ、眠りの状態は賢者が確立した境地とは異なったものなのである。(p42)
至福の状態
しかし、だからといってつねに眠りのなかにいることを望んではならない。
第一に、それは不可能だ。
それは他の状態と必然的に交替しなければならないからである。
第二に、それは真我を実現したジニャーニがいる至福の状態ではない。
なぜなら彼の状態は永久的で、不変のものだからである。
しかも、眠りの状態は人びとから覚醒の状態として認識されてはいない。
だが、賢者は眠りの状態でもつねに気づいている。
それゆえ、眠りの状態は賢者が確立した境地とは異なったものなのである。(p42)
眠り と 努力
さらに、眠りの状態は個人的観念や印象から自由だ。
その状態を人の意志によって交替させることはできない。
なぜならその状態のなかでは、努力は不可能だからである。
純粋意識により近い状態でありながら、眠りの状態は真我を実現するための
努力と相容れないものなのである。(p42)
限界を超越する
本当は、あなたがみじめで不幸であるべき理由など何もない。
あなたが自分で、無限の存在であるあなたの真の本性の上に限界を押しつけ
ておいて、それから自分は限定された創造物だと嘆くのである。
そしてありもしない限定を超越するために、あれやこれといった霊的修練を
始めるのだ。
だが、あなたの修練そのものが限定された存在を想定したものなら、どうし
てそれが限界を超越する助けになるというのだろう。
それゆえ、あなたは本当は無限の純粋な存在であり、真我であるということ
を知りなさい、と私は言うのだ。(p44)
あなたの無知
あなたはいつも真我である。
真我以外の何ものでもない。
それゆえ、本当はけっして真我について無知ではありえない。
十人目を失った愚かな十人の男たちの無知と同じように、あなたの無知は単
に想像上の無知でしかない。
嘆きをもたらしたのは、この無知なのである。(p44)
想像上の無知
あなたはいつも真我である。
真我以外の何ものでもない。
それゆえ、本当はけっして真我について無知ではありえない。
十人目を失った愚かな十人の男たちの無知と同じように、あなたの無知は単
に想像上の無知でしかない。
嘆きをもたらしたのは、この無知なのである。(p44)
真実の知識
真実の知識が、あなたに新たな存在をつくり出すわけではない。
それはただあなたの気づかなかった無知をぬぐい去るだけだ。
あなたの本性に至福が加えられるのではない。
永遠不滅である、あなたの真の自然な状態として、それが顕(あら)わにな
るだけなのだ。
苦悩から解放される唯一の道は、真我を知ること、そして真我として在るこ
とである。
どうしてこれが達成不可能なことだろうか?(p45)
無知をぬぐい去る
真実の知識が、あなたに新たな存在をつくり出すわけではない。
それはただあなたの気づかなかった無知をぬぐい去るだけだ。
あなたの本性に至福が加えられるのではない。
永遠不滅である、あなたの真の自然な状態として、それが顕(あら)わにな
るだけなのだ。
苦悩から解放される唯一の道は、真我を知ること、そして真我として在るこ
とである。
どうしてこれが達成不可能なことだろうか?(p45)
小さな子供さえ
すべてに遍(あまね)く存在している真我を、人びとは知ることができない
と言う。
私に何ができよう?
最も小さな子供さえ言っている、「私はいる。私はする。これは私のものだ」
と。
それゆえ、誰もがこの「私」がつねに存在することを知っている。
この「私」がそこにあるときだけ、あなたは身体だ、彼はヴェンカンナだ、
これはラマナだ、といった感覚があるのだ。
いつも目で見ることのできる自分自身の真我を知るために、ロウソクをかか
げて探す必要があるだろうか?
自分自身の真我そのものであるアートマ・スワルーパ(真我の本性)を知ら
ないと言うことは、「私は私自身を知らない」と言うのと同じことである。(p45)
真我の本性
すべてに遍(あまね)く存在している真我を、人びとは知ることができない
と言う。
私に何ができよう?
最も小さな子供さえ言っている、「私はいる。私はする。これは私のものだ」
と。
それゆえ、誰もがこの「私」がつねに存在することを知っている。
この「私」がそこにあるときだけ、あなたは身体だ、彼はヴェンカンナだ、
これはラマナだ、といった感覚があるのだ。
いつも目で見ることのできる自分自身の真我を知るために、ロウソクをかか
げて探す必要があるだろうか?
自分自身の真我そのものであるアートマ・スワルーパ(真我の本性)を知ら
ないと言うことは、「私は私自身を知らない」と言うのと同じことである。(p45)
目的地
そこに到達されるような目的地はない。
達成されるようなものもない。
あなたは真我である。
あなたはつねに存在している。
それが存在する、ということ以上に真我を断定できるものは何もない。
神を見ること、あるいは真我を見ることは、ただ真我として、あるいは自分
自身として在ることに他ならない。
あなたはすでに真我として在りながら、いかにして真我に到達するかを知り
たがっている。
それは、ある人がラマナアシュラマムにいながら、いくつラマナアシュラマ
ムへの道があり、どの道が最善の道であるかと尋ねているようなものだ。
あなたに必要なのは、あなたがこの身体であるという想念と、外界のものご
とあるいは非真我に関するすべての想念を捨て去ることだけである。(p46)
真我に到達するA
そこに到達されるような目的地はない。
達成されるようなものもない。
あなたは真我である。
あなたはつねに存在している。
それが存在する、ということ以上に真我を断定できるものは何もない。
神を見ること、あるいは真我を見ることは、ただ真我として、あるいは自分
自身として在ることに他ならない。
あなたはすでに真我として在りながら、いかにして真我に到達するかを知り
たがっている。
それは、ある人がラマナアシュラマムにいながら、いくつラマナアシュラマ
ムへの道があり、どの道が最善の道であるかと尋ねているようなものだ。
あなたに必要なのは、あなたがこの身体であるという想念と、外界のものご
とあるいは非真我に関するすべての想念を捨て去ることだけである。(p46)
自我とは何か?
(自我とは何か、それは真我とどのような関係にあるのか?、というなら)
自我は現れ、そして消え去る。
それは一時的なものだ。
一方、真我は永久的なものだ。
あなたは、実際には真我でありながら、真我と自我を誤って同一視している
のである。(p46)
真我と自我
(自我とは何か、それは真我とどのような関係にあるのか?、というなら)
自我は現れ、そして消え去る。
それは一時的なものだ。
一方、真我は永久的なものだ。
あなたは、実際には真我でありながら、真我と自我を誤って同一視している
のである。(p46)
同一視の誤り
(真我と自我の同一視の誤りはどうして起こったのか?、というなら)
それが起こったかどうか見てみなさい。(p46)
苦しみと喜び
(なぜ自我は私たちに苦しみを与えるのか?、というなら)
その苦しみは誰に起こるのだろう?
苦しみもまた想像されたものである。
苦しみと喜びは自我にとってしか存在しない。(p46)
なぜ世界はこうも
(なぜ世界はこうも無知に包まれているのか?、というなら)
あなた自身の面倒を見なさい。
世界のことは世界にまかせるがいい。
あなた自身を見なさい。
もしあなたが身体としてあるなら、そこには粗大な世界もまた存在するだろ
う。
もしあなたが霊性として在るなら、すべてはただ霊性として現れる。(p47)
アヴィディヤー(無知)
(アヴィディヤー(無知)は存在するのか、というなら)
誰にとっての無知だろうか?
(自我にとって)
そのとおり。
自我にとってである。
自我を取り除きなさい。
そうすればアヴィディヤーは立ち去るだろう。
自我を探してみなさい。
するとそれが消え去り、ただ真我だけが残る。
アヴィディヤーを装っていた自我は見つからない。
真理のなかにアヴィディヤーは存在しないからである。
すべてのシャーストラ(聖典)はアヴィディヤーの存在を反証するためにあ
るのだ。(p47)
無知は存在するのか
(無知は存在するのか、というなら)
誰にとっての無知だろうか?
(自我にとって)
そのとおり。
自我にとってである。
自我を取り除きなさい。
そうすればアヴィディヤー(無知)は立ち去るだろう。
自我を探してみなさい。
するとそれが消え去り、ただ真我だけが残る。
無知を装っていた自我は見つからない。
真理のなかに無知は存在しないからである。
すべてのシャーストラ(聖典)は無知の存在を反証するためにあるのだ。(p47)
自我はどのように現れたのか
(自我はどのように現れたのか、というなら)
自我は存在しない。
さもなければ、二つの自己をあなたは認めるだろうか?
自我がないとき、無知が存在できるだろうか?
もしあなたがもともと不在だった無知を探しだそうとすれば、それは存在し
ていなかったということを知るだろう。
あるいはそれが消え去ったとあなたは言うだろう。(p47-48)
二つの自己A
(自我はどのように現れたのか、というなら)
自我は存在しない。
さもなければ、二つの自己をあなたは認めるだろうか?
自我がないとき、無知が存在できるだろうか?
もしあなたがもともと不在だった無知を探しだそうとすれば、それは存在し
ていなかったということを知るだろう。
あるいはそれが消え去ったとあなたは言うだろう。(p47-48)
無知 と 自我
無知は自我に結びついている。
なぜ自我のことを想い、そして苦しむのか?
無知とはいったい何だろうか?
それは存在しないものなのだ。
しかしながら、世俗的な人生はアヴィディヤーという前提を必要としている。
アヴィディヤーとはわれわれの無知に他ならない。
それは自己に対する無知あるいは忘却である。
太陽の前に暗闇がありうるだろうか?
同じように、自ら輝き、自ら明らかな真我の前に無知がありうるだろうか?
もしあなたが真我を知れば、そこには暗闇も、無知も、苦しみもないだろう。(p48)
なぜ苦しむのか
無知は自我に結びついている。
なぜ自我のことを想い、そして苦しむのか?
無知とはいったい何だろうか?
それは存在しないものなのだ。
しかしながら、世俗的な人生はアヴィディヤーという前提を必要としている。
アヴィディヤーとはわれわれの無知に他ならない。
それは自己に対する無知あるいは忘却である。
太陽の前に暗闇がありうるだろうか?
同じように、自ら輝き、自ら明らかな真我の前に無知がありうるだろうか?
もしあなたが真我を知れば、そこには暗闇も、無知も、苦しみもないだろう。(p48)
不幸と困難
不幸と困難を感じるのは心である。
暗闇は来ることも去ることもない。
太陽を見なさい。
そうすればそこに暗闇はない。
それと同じように、真我を見なさい。
するとそこにアヴィディヤー(無知)はないことを見いだすだろう。(p48)
太陽を見なさい
不幸と困難を感じるのは心である。
暗闇は来ることも去ることもない。
太陽を見なさい。
そうすればそこに暗闇はない。
それと同じように、真我を見なさい。
するとそこにアヴィディヤーはないことを見いだすだろう。(p48)
真我を見なさい@
不幸と困難を感じるのは心である。
暗闇は来ることも去ることもない。
太陽を見なさい。
そうすればそこに暗闇はない。
それと同じように、真我を見なさい。
するとそこにアヴィディヤーはないことを見いだすだろう。(p48)
非実在はどのようにして現れたのか
(非実在はどのようにして現れたのか、というなら)
それが生じたかどうか、見てみなさい。
別の見地からすれば、非実在といったものは存在せず、ただ真我だけが存在
している。
もしあなたが世界とその他すべての知覚の基盤である自我の源をたどれば、
自我はまったく存在していないこと、あなたが見ているこの創造された世界
もまた存在していないことを見いだすだろう。(p48)
別の見地からすれば
(非実在はどのようにして現れたのか、というなら)
それが生じたかどうか、見てみなさい。
別の見地からすれば、非実在といったものは存在せず、ただ真我だけが存在
している。
もしあなたが世界とその他すべての知覚の基盤である自我の源をたどれば、
自我はまったく存在していないこと、あなたが見ているこの創造された世界
もまた存在していないことを見いだすだろう。(p48)
残酷な神のリーラ
(真我の知識をこんなにも困難なものにしたのは、残酷な神のリーラ(戯れ)
なのだ、というなら)
真我を知ることは、真我として在ることである。
そして在ることとは存在、自分自身の存在を意味する。
たとえ自分で見ることができなくても、自分に目があることを否定する者が
いないように、誰も自分の存在を否定する人はいない。
問題は、鏡に映る自分の目を対象化してしまうように、あなたが真我を対象
物として見ようとしてしまうところにある。
あなたは今まであまりにも客観化することに慣れてしまったため、あなた自
身の知識を失ってしまったのだ。
なぜなら、真我を客観視することはできないからである。
誰が真我を知るのだろう?
それ自体では生命力をもたない身体がそれを知るのだろうか?
あなたはいつもあなたの「私」について語ったり、考えたりしている。
それにもかかわらず、尋ねられるとあなたはその知識を否定する。
あなたが真我なのだ。
それなのに、あなたはどのようにして真我を知るのかと尋ねる。
それでは、どこに神のリーラがあり、どこにその残酷さがあるというのだろ
う?
人々が真我を否定するために、シャーストラ(聖典)はマーヤー(幻想)や
リーラなどについて語るのである。(p49)
在ることとは存在
真我を知ることは、真我として在ることである。
そして在ることとは存在、自分自身の存在を意味する。
たとえ自分で見ることができなくても、自分に目があることを否定する者が
いないように、誰も自分の存在を否定する人はいない。
問題は、鏡に映る自分の目を対象化してしまうように、あなたが真我を対象
物として見ようとしてしまうところにある。
あなたは今まであまりにも客観化することに慣れてしまったため、あなた自
身の知識を失ってしまったのだ。
なぜなら、真我を客観視することはできないからである。
誰が真我を知るのだろう?
それ自体では生命力をもたない身体がそれを知るのだろうか?
あなたはいつもあなたの「私」について語ったり、考えたりしている。
それにもかかわらず、尋ねられるとあなたはその知識を否定する。
あなたが真我なのだ。(p49)
真我を対象物として
真我を知ることは、真我として在ることである。
そして在ることとは存在、自分自身の存在を意味する。
たとえ自分で見ることができなくても、自分に目があることを否定する者が
いないように、誰も自分の存在を否定する人はいない。
問題は、鏡に映る自分の目を対象化してしまうように、あなたが真我を対象
物として見ようとしてしまうところにある。
あなたは今まであまりにも客観化することに慣れてしまったため、あなた自
身の知識を失ってしまったのだ。
なぜなら、真我を客観視することはできないからである。
誰が真我を知るのだろう?
それ自体では生命力をもたない身体がそれを知るのだろうか?
あなたはいつもあなたの「私」について語ったり、考えたりしている。
それにもかかわらず、尋ねられるとあなたはその知識を否定する。
あなたが真我なのだ。(p49)
真我を客観視する
たとえ自分で見ることができなくても、自分に目があることを否定する者が
いないように、誰も自分の存在を否定する人はいない。
問題は、鏡に映る自分の目を対象化してしまうように、あなたが真我を対象
物として見ようとしてしまうところにある。
あなたは今まであまりにも客観化することに慣れてしまったため、あなた自
身の知識を失ってしまったのだ。
なぜなら、真我を客観視することはできないからである。
誰が真我を知るのだろう?
それ自体では生命力をもたない身体がそれを知るのだろうか?
あなたはいつもあなたの「私」について語ったり、考えたりしている。
それにもかかわらず、尋ねられるとあなたはその知識を否定する。
あなたが真我なのだ。(p49)
誰が真我を知るのだろう?
あなたは今まであまりにも客観化することに慣れてしまったため、あなた自
身の知識を失ってしまったのだ。
なぜなら、真我を客観視することはできないからである。
誰が真我を知るのだろう?
それ自体では生命力をもたない身体がそれを知るのだろうか?
あなたはいつもあなたの「私」について語ったり、考えたりしている。
それにもかかわらず、尋ねられるとあなたはその知識を否定する。
あなたが真我なのだ。(p49)
あなたが真我なのだ
あなたは今まであまりにも客観化することに慣れてしまったため、あなた自
身の知識を失ってしまったのだ。
なぜなら、真我を客観視することはできないからである。
誰が真我を知るのだろう?
それ自体では生命力をもたない身体がそれを知るのだろうか?
あなたはいつもあなたの「私」について語ったり、考えたりしている。
それにもかかわらず、尋ねられるとあなたはその知識を否定する。
あなたが真我なのだ。(p49)
他者の助けに
(真我を実現すれば他者の助けになるか、というなら)
もちろんだ。
それは可能なかぎり最高の助けである。
だが、そこに助けられるべき他者は存在しない。
なぜなら、金細工師がさまざまな宝飾品のなかの金を見積もるとき、ただ金
だけを見ているように、真我を実現した人はただ真我だけを見ているからだ。
あなたが自己を身体と同一視すれば、そこには名前と形がある。
だが、あなたが身体意識を超越するとき、「他者」もともに消え去る。
真我を実現した人は、世界を彼自身と別のものとしては見ないのである。(p49-50)
最高の助け
(真我を実現すれば他者の助けになるか、というなら)
もちろんだ。
それは可能なかぎり最高の助けである。
だが、そこに助けられるべき他者は存在しない。
なぜなら、金細工師がさまざまな宝飾品のなかの金を見積もるとき、ただ金
だけを見ているように、真我を実現した人はただ真我だけを見ているからだ。
あなたが自己を身体と同一視すれば、そこには名前と形がある。
だが、あなたが身体意識を超越するとき、「他者」もともに消え去る。
真我を実現した人は、世界を彼自身と別のものとしては見ないのである。(p49-50)
身体意識を超越
(真我を実現すれば他者の助けになるか、というなら)
もちろんだ。
それは可能なかぎり最高の助けである。
だが、そこに助けられるべき他者は存在しない。
なぜなら、金細工師がさまざまな宝飾品のなかの金を見積もるとき、ただ金
だけを見ているように、真我を実現した人はただ真我だけを見ているからだ。
あなたが自己を身体と同一視すれば、そこには名前と形がある。
だが、あなたが身体意識を超越するとき、「他者」もともに消え去る。
真我を実現した人は、世界を彼自身と別のものとしては見ないのである。(p49-50)
植物や樹木など
(真我を実現した人が世界を自分自身と別のものとしては見ないとは、植物
や樹木などについても同じなのか、というなら)
それらが真我を離れて存在するだろうか?
見いだしなさい。
あなたはあなたが植物を見ていると考えている。
その考えは真我から投影されたものである。
その想念がどこから現れたのか見いだしなさい。
そうすれば、想念はもはや現れず、ただ真我だけが残るだろう。(p50)
真我から投影されたもの
(真我を実現した人が世界を自分自身と別のものとしては見ないとは、植物
や樹木などについても同じなのか、というなら)
それらが真我を離れて存在するだろうか?
見いだしなさい。
あなたはあなたが植物を見ていると考えている。
その考えは真我から投影されたものである。
その想念がどこから現れたのか見いだしなさい。
そうすれば、想念はもはや現れず、ただ真我だけが残るだろう。(p50)
映画のようなものA
(理論的には理解できるが、想念は依然としてそこにある、というなら)
そうだ。
それは映画のようなものだ。
スクリーン上には光があり、その上を去来する影が、何かのドラマが演じら
れているような印象を観客に与えるのである。
もし映画のなかで、観客もまたドラマの一部としてスクリーン上に見られた
としたら、見る者と見られるものがともにスクリーン上にあることになる。
それをあなた自身に当てはめてみなさい。
あなたはスクリーンだ。
真我が自我をつくり出した。
そして自我とはあなたが尋ねている世界や、植物や、樹木として現れた想念
の総体なのである。
実際には、それらはみな真我以外の何ものでもない。
もしあなたが真我を見るなら、いつでもどこでもすべてが真我として現れる
だろう。
真我以外の何ものも存在しないのである。(p50)
あなたはスクリーンだ
(理論的には理解できるが、想念は依然としてそこにある、というなら)
そうだ。
それは映画のようなものだ。
スクリーン上には光があり、その上を去来する影が、何かのドラマが演じら
れているような印象を観客に与えるのである。
もし映画のなかで、観客もまたドラマの一部としてスクリーン上に見られた
としたら、見る者と見られるものがともにスクリーン上にあることになる。
それをあなた自身に当てはめてみなさい。
あなたはスクリーンだ。
真我が自我をつくり出した。
そして自我とはあなたが尋ねている世界や、植物や、樹木として現れた想念
の総体なのである。
実際には、それらはみな真我以外の何ものでもない。
もしあなたが真我を見るなら、いつでもどこでもすべてが真我として現れる
だろう。
真我以外の何ものも存在しないのである。(p50)
自由
自由がわれわれの本性なのだ。
それなのに束縛されていると想像し、解放されるためのさまざまな努力奮闘
を試みている。
その間でさえ、われわれはいつも自由なのである。
この段階に達したときにのみ、理解されるだろう。
われわれは、われわれがつねにそう在りつづけてきた、そして今もそうで在
るものに、血迷いながらも必死に到達しようと試みてきたことに驚愕(きょ
うがく)するだろう。
この話がそれを明らかにしてくれるだろう。
ある人がこのホールで眠りについた。
彼は世界を旅する夢をみた。
山や渓谷、森林や草原、砂漠や海を放浪し、さまざまな大陸を駆けめぐり、
多大な努力と困憊(こんぱい)を極めた長年の旅を終えてやっとこの国に戻
り、ティルヴァンナーマライに到着してアーシュラムにたどり着いた。
このホールに入ってきたちょうどその瞬間、彼は目を覚まし、彼が横になっ
て眠っていた場所から一歩も動いていなかったことを知るのである。
彼は大変な苦労の末にこのホールに戻ってきたわけではなく、今までずっと
ホールのなかにいたのだ。
それはまったくこれと同じことである。
もし、「なぜ自由でありながら、われわれは束縛されていると想像してしま
うのでしょうか?」と尋ねられたら、私はこう答えるだろう。
「なぜホールのなかにいながら、あなたは山や谷を渡り、砂漠や海を越えて、
世界中を冒険していたと想像したのだろうか?
それはすべてあなたの心のなかにある。
それはマーヤー、幻想なのである」と。(p51)
世界を旅する夢
ある人がこのホールで眠りについた。
彼は世界を旅する夢をみた。
山や渓谷、森林や草原、砂漠や海を放浪し、さまざまな大陸を駆けめぐり、
多大な努力と困憊(こんぱい)を極めた長年の旅を終えてやっとこの国に戻
り、ティルヴァンナーマライに到着してアーシュラムにたどり着いた。
このホールに入ってきたちょうどその瞬間、彼は目を覚まし、彼が横になっ
て眠っていた場所から一歩も動いていなかったことを知るのである。
彼は大変な苦労の末にこのホールに戻ってきたわけではなく、今までずっと
ホールのなかにいたのだ。
それはまったくこれと同じことである。
もし、「なぜ自由でありながら、われわれは束縛されていると想像してしま
うのでしょうか?」と尋ねられたら、私はこう答えるだろう。
「なぜホールのなかにいながら、あなたは山や谷を渡り、砂漠や海を越えて、
世界中を冒険していたと想像したのだろうか?
それはすべてあなたの心のなかにある。
それはマーヤー、幻想なのである」と。(p51)
アジニャーニ
(では、どうしてアジニャーニ(真我を実現していない者)は、唯一の実在
について無知なのか、というなら)
アジニャーニは、ハートから放たれる純粋な意識の光の反映にすぎない心し
か見ていない。
彼はハートそのものに無知なのだ。
なぜなら彼の心は外を向いており、その源を探ったことが今までなかったか
らである。(p52)
忘れる
(なぜ自分が真我であると覚えていることができないのか、というなら)
人びとは、すべてに満ちわたる真我を覚えていることや忘れることについて
語る。
記憶も忘却もともに単なる想念の状態でしかない。
そこに想念があるかぎり、記憶と忘却は交互に起こるだろう。
だが、真理はその彼方に在る。
記憶や忘却は何かに依存しなければならない。
その何かは真我にとって異質なものであるに違いない。
そうでなければ忘れるということはありえないだろう。
記憶と忘却は個人という観念に依存するものである。
この個人的な「私」という想念は、見つけだそうとしても見つからない。
なぜならそれは実在しないからだ。
それゆえ、この「私」という想念は、幻想あるいは無知(マーヤー、アヴィ
ディヤー、アジニャーナ)と同意語なのである。
この無知が今までけっして存在していなかったと知ること、それがすべての
霊的教えの目的である。
無知とはその無知を自覚している人のものであるに違いない。
その自覚がジニャーナである。
ジニャーナは永遠で自然なもの、アジニャーナは不自然で偽りのものなのだ。(p53)
記憶 と 忘却
(なぜ自分が真我であると覚えていることができないのか、というなら)
人びとは、すべてに満ちわたる真我を覚えていることや忘れることについて
語る。
記憶も忘却もともに単なる想念の状態でしかない。
そこに想念があるかぎり、記憶と忘却は交互に起こるだろう。
だが、真理はその彼方に在る。
記憶や忘却は何かに依存しなければならない。
その何かは真我にとって異質なものであるに違いない。
そうでなければ忘れるということはありえないだろう。
記憶と忘却は個人という観念に依存するものである。
この個人的な「私」という想念は、見つけだそうとしても見つからない。
なぜならそれは実在しないからだ。
それゆえ、この「私」という想念は、幻想あるいは無知(マーヤー、アヴィ
ディヤー、アジニャーナ)と同意語なのである。
この無知が今までけっして存在していなかったと知ること、それがすべての
霊的教えの目的である。
無知とはその無知を自覚している人のものであるに違いない。
その自覚がジニャーナである。
ジニャーナは永遠で自然なもの、アジニャーナは不自然で偽りのものなのだ。(p53)
霊的教えの目的
記憶と忘却は個人という観念に依存するものである。
この個人的な「私」という想念は、見つけだそうとしても見つからない。
なぜならそれは実在しないからだ。
それゆえ、この「私」という想念は、幻想あるいは無知(マーヤー、アヴィ
ディヤー、アジニャーナ)と同意語なのである。
この無知が今までけっして存在していなかったと知ること、それがすべての
霊的教えの目的である。
無知とはその無知を自覚している人のものであるに違いない。
その自覚がジニャーナである。
ジニャーナは永遠で自然なもの、アジニャーナは不自然で偽りのものなのだ。(p54)
サンスカーラ(心の潜在的傾向)
(真理を聞いたにもかかわらず、なぜ人は満足しないのか、というなら)
なぜならサンスカーラ、心の潜在的傾向がいまだに破壊されていないからだ。
サンスカーラが消え去らないかぎり、つねに疑いと混乱はつづくだろう。
すべての努力はこの疑いと混乱を破壊することに向けられている。
そうするためには、その根本を絶たねばならない。
その根本がサンスカーラである。
グルから指導された修練によって、サンスカーラは効力を失う。
探求者が自分自身の努力で無知が存在していないことを見いだせるように、
グルはそれを探求者の手にまかせる。
真理を聞くこと(シュラヴァナ)が最初の段階である。
もし理解が確立されていないときは、それについての熟考(マナナ)と絶え
間ない黙想(ニディディアーサナ)が為(な)されなければならない。
この二つの過程がサンスカーラの種子を焼き尽くし、効力を失わせるのであ
る。(p54)
心の潜在的傾向(サンスカーラ)
(真理を聞いたにもかかわらず、なぜ人は満足しないのか、というなら)
なぜならサンスカーラ、心の潜在的傾向がいまだに破壊されていないからだ。
サンスカーラが消え去らないかぎり、つねに疑いと混乱はつづくだろう。
すべての努力はこの疑いと混乱を破壊することに向けられている。
そうするためには、その根本を絶たねばならない。
その根本がサンスカーラである。
グルから指導された修練によって、サンスカーラは効力を失う。
探求者が自分自身の努力で無知が存在していないことを見いだせるように、
グルはそれを探求者の手にまかせる。
真理を聞くこと(シュラヴァナ)が最初の段階である。
もし理解が確立されていないときは、それについての熟考(マナナ)と絶え
間ない黙想(ニディディアーサナ)が為(な)されなければならない。
この二つの過程がサンスカーラの種子を焼き尽くし、効力を失わせるのであ
る。(p54)
熟達した探求者
幾人かの非凡な人たちは真理を一度聞いただけで、揺らぐことのない知識を
得る。
彼らは熟達した探求者たちである。
初心者には長い期間が必要となるだろう。(p54)
無知 と 知識
(いったいどのように無知(アヴィディヤー)は現れるのか?、というなら)
無知はけっして現れたことがなかった。
それは存在しない。
存在するのは、唯一ヴィディヤー(知識)だけである。(p54)
目的地と自我
(目的をもって探究することは間違いなのか?、というなら)
もし到達されるべき目的地があるとすれば、それは永遠のものではありえな
い。
目的地は、すでにそこにあるものでなければならない。
われわれは自我によって目的地に到達しようとしている。
だが、目的地は自我が現れる以前から存在している。
目的地はわれわれの誕生、つまり自我の誕生以前から存在している。
われわれが存在するため、自我も存在するように見えるのである。(p55)
…として見なせば
もしわれわれが真我を自我として見なせば、われわれは自我となる。
もし真我を心として見なせば、われわれは心となる。
もし真我を身体として見なせば、われわれは身体となるのである。
さまざまな形でわれわれを包みこむ心の鞘(コーシャ)をつくり出すのは想
念だ。
水面に映る影は揺らいでいるように見える。
影の揺らぎを止めることができるだろうか?
もし揺れが止まれば、あなたは水に気づくことなく光だけを見るだろう。
同じように、自我とその活動に注意を払うことをやめ、ただその背後にある
光だけを見なさい。
自我とは「私」という想念である。
真実の「私」が真我なのである。(p55)
水面に映る影
水面に映る影は揺らいでいるように見える。
影の揺らぎを止めることができるだろうか?
もし揺れが止まれば、あなたは水に気づくことなく光だけを見るだろう。
同じように、自我とその活動に注意を払うことをやめ、ただその背後にある
光だけを見なさい。
自我とは「私」という想念である。
真実の「私」が真我なのである。(p55)
真実の「私」A
水面に映る影は揺らいでいるように見える。
影の揺らぎを止めることができるだろうか?
もし揺れが止まれば、あなたは水に気づくことなく光だけを見るだろう。
同じように、自我とその活動に注意を払うことをやめ、ただその背後にある
光だけを見なさい。
自我とは「私」という想念である。
真実の「私」が真我なのである。(p55)
実現
(ただ想念を捨て去るだけの問題ならば、真我の実現までには一歩を踏みだ
すだけでいいのか?、というなら)
実現はすでにそこに在る。
想念から自由になった状態だけが真実の状態である。
実現といったような行為はない。
真我を実現していない人がいるだろうか?
自分の存在を否定する人がいるだろうか?
実現を語ることで、そこには二つの自己があることを暗示している。
実現する自己と実現される自己である。
まだ実現されていないものは、実現されなければならない。
ひとたびわれわれが自分自身の存在を認めるなら、どうして真我を知らない
ということがあるだろうか?(p55-56)
二つの自己B
(ただ想念を捨て去るだけの問題ならば、真我の実現までには一歩を踏みだ
すだけでいいのか?、というなら)
実現はすでにそこに在る。
想念から自由になった状態だけが真実の状態である。
実現といったような行為はない。
真我を実現していない人がいるだろうか?
自分の存在を否定する人がいるだろうか?
実現を語ることで、そこには二つの自己があることを暗示している。
実現する自己と実現される自己である。
まだ実現されていないものは、実現されなければならない。
ひとたびわれわれが自分自身の存在を認めるなら、どうして真我を知らない
ということがあるだろうか?(p55-56)
幸福を覆い隠す
われわれの幸福を覆い隠すのは心なのだ。
どうやってわれわれは自分が存在していると知るのだろうか?
もしわれわれを取り巻いている世界が在るからだと言うなら、どうして世界
のない深い眠りのなかでも、あなたが存在していたことを知っているのだろ
うか?(p56)
心を消滅させる
(どうすれば心を消滅させることができるか、というなら)
心を殺したいと思っているのは、心そのものではないだろうか?
心がそれ自体を殺すことはできない。
それゆえ、あなたの仕事は心の真の本性を見いだすことにある。
そうすれば、心が存在していないことを知るだろう。
真我が探究されたとき、心は消え去る。
真我のなかにとどまれば、心の心配をする必要はなくなるのである。(p56)
ムクティ(解脱)A
(ムクティ(解脱)と真我の実現は同じことか?、というなら)
ムクティあるいは真我の実現は、われわれの本性である。
それはわれわれのもうひとつの名前にすぎない。
われわれがムクティを求めているのは本当におかしなことだ。
それはちょうど木陰で涼んでいた人が、わざわざ自分から木陰を去って灼熱
の太陽のなかを行き、過酷な暑さに疲れ、たいへんな努力をして木陰に戻り、
それから、
「ああ、何と木陰は気持ちがいいんだろう。
やっと木陰にたどり着いた!」
と大喜びするようなものである。
われわれがやっていることは、これとまったく同じことなのだ。
われわれは真理と異なるものではない。
ただそう想像しているだけなのである。
ベーダ・バーヴア(異なっているという感覚)をつくり出しておいて、それ
からその感覚を取り去るために偉大なサーダナ(霊的な修行)をし、真理と
ひとつであることを悟るのである。
なぜベーダ・バーヴアを想像して、あるいはつくり出しておいて、それから
それを壊すのか?(p56-57)
想像しているだけ
ムクティあるいは真我の実現は、われわれの本性である。
それはわれわれのもうひとつの名前にすぎない。
われわれがムクティを求めているのは本当におかしなことだ。
それはちょうど木陰で涼んでいた人が、わざわざ自分から木陰を去って灼熱
の太陽のなかを行き、過酷な暑さに疲れ、たいへんな努力をして木陰に戻り、
それから、
「ああ、何と木陰は気持ちがいいんだろう。
やっと木陰にたどり着いた!」
と大喜びするようなものである。
われわれがやっていることは、これとまったく同じことなのだ。
われわれは真理と異なるものではない。
ただそう想像しているだけなのである。
ベーダ・バーヴア(異なっているという感覚)をつくり出しておいて、それ
からその感覚を取り去るために偉大なサーダナ(霊的な修行)をし、真理と
ひとつであることを悟るのである。
なぜベーダ・バーヴアを想像して、あるいはつくり出しておいて、それから
それを壊すのか?(p56-57)
至福である存在
至福とはあなた自身の存在以外の何ものでもない。
あなたは至福である存在から離れていない。
あなたは今、あなた自身を移ろいゆくはかない心と身体だと考えている。
だが、あなたは不変で永遠なるものなのだ。
それこそあなたが知るべきことである。(p56-57)
無知 と 智慧
(闇にとざされて、私は無知なのです、というなら)
この無知が去らなければならない。
今一度言おう。
誰が「私は無知です」と言うのだろうか?
それは無知を目撃している者に違いない。
それこそがあなたである。
ソクラテスは「私は私が知らないということを知っている」と言った。
それは無知だろうか?
それこそが智慧(ちえ)なのである。(p58)
無知を目撃している者
(闇にとざされて自分は無知なのです、というなら)
この無知が去らなければならない。
今一度言おう。
誰が「私は無知です」と言うのだろうか?
それは無知を目撃している者に違いない。
それこそがあなたである。
ソクラテスは「私は私が知らないということを知っている」と言った。
それは無知だろうか?
それこそが智慧なのである。(p57-58)
智慧
誰が「私は無知です」と言うのだろうか?
それは無知を目撃している者に違いない。
それこそがあなたである。
ソクラテスは「私は私が知らないということを知っている」と言った。
それは無知だろうか?
それこそが智慧(ちえ)なのである。(p58)
ソクラテス
誰が「私は無知です」と言うのだろうか?
それは無知を目撃している者に違いない。
それこそがあなたである。
ソクラテスは「私は私が知らないということを知っている」と言った。
それは無知だろうか?
それこそが智慧(ちえ)なのである。(p58)
永久的なもの
(なぜあなたの臨在のなかでは平和を感じ、ヴェロールでは不幸せなのか、
というなら)
この場所にある感覚が至福だろうか?
この場所を離れると不幸せになるとあなたは言う。
つまり、この平和は永久的なものではなく、他の場所で感じられた不幸せを
併せもっている。
それゆえ、場所のなかや限られた時間のなかに至福を見いだすことはできな
いのだ。
その平和が永久的なものでないかぎり、あなたにとっては何の益もない。
永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。(p58)
あなた自身の存在
(なぜあなたの臨在のなかでは平和を感じ、ヴェロールでは不幸せなのか、
というなら)
この場所にある感覚が至福だろうか?
この場所を離れると不幸せになるとあなたは言う。
つまり、この平和は永久的なものではなく、他の場所で感じられた不幸せを
併せもっている。
それゆえ、場所のなかや限られた時間のなかに至福を見いだすことはできな
いのだ。
その平和が永久的なものでないかぎり、あなたにとっては何の益もない。
永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。(p58)
実現されている
真我はつねに実現されている。
すでに、そしてつねに実現されているものをあらためて実現する必要はない。
あなた自身の存在を否定することはできないからだ。
その存在が意識、真我である。
あなたがそこに存在しないかぎり、質問することもできないだろう。
それゆえ、あなたはあなた自身の存在を認めなければならない。
その存在が真我である。
真我はすでに実現されている。
そのため、実現するための努力は、ただあなたが実現していないという現在
の過ちを認識することにある。
新たな実現といったものはない。
ただ真我がその本性を現すだけである。(p58)
自身の存在を否定することはできない
真我はつねに実現されている。
すでに、そしてつねに実現されているものをあらためて実現する
必要はない。
あなた自身の存在を否定することはできないからだ。
その存在が意識、真我である。
あなたがそこに存在しないかぎり、質問することもできないだろ
う。
それゆえ、あなたはあなた自身の存在を認めなければならない。
その存在が真我である。(p58)
質問することも
あなたがそこに存在しないかぎり、質問することもできないだろ
う。
それゆえ、あなたはあなた自身の存在を認めなければならない。
その存在が真我である。
真我はすでに実現されている。
そのため、実現するための努力は、ただあなたが実現していない
という現在の過ちを認識することにある。
新たな実現といったものはない。
ただ真我がその本性を現すだけである。(p58)
その存在が真我
真我はつねに実現されている。
すでに、そしてつねに実現されているものをあらためて実現する必要はない。
あなた自身の存在を否定することはできないからだ。
その存在が意識、真我である。
あなたがそこに存在しないかぎり、質問することもできないだろ
う。
それゆえ、あなたはあなた自身の存在を認めなければならない。
その存在が真我である。
真我はすでに実現されている。
そのため、実現するための努力は、ただあなたが実現していない
という現在の過ちを認識することにある。
新たな実現といったものはない。
ただ真我がその本性を現すだけである。(p58)
過ちを認識する
真我はつねに実現されている。
すでに、そしてつねに実現されているものをあらためて実現する必要はない。
あなた自身の存在を否定することはできないからだ。
その存在が意識、真我である。
あなたがそこに存在しないかぎり、質問することもできないだろう。
それゆえ、あなたはあなた自身の存在を認めなければならない。
その存在が真我である。
真我はすでに実現されている。
そのため、実現するための努力は、ただあなたが実現していないという現在
の過ちを認識することにある。
新たな実現といったものはない。
ただ真我がその本性を現すだけである。(p58)
新たな実現
真我はつねに実現されている。
すでに、そしてつねに実現されているものをあらためて実現する必要はない。
あなた自身の存在を否定することはできないからだ。
その存在が意識、真我である。
あなたがそこに存在しないかぎり、質問することもできないだろう。
それゆえ、あなたはあなた自身の存在を認めなければならない。
その存在が真我である。
真我はすでに実現されている。
そのため、実現するための努力は、ただあなたが実現していないという現在
の過ちを認識することにある。
新たな実現といったものはない。
ただ真我がその本性を現すだけである。(p58)
何年もかかる
(真我の実現には何年もかかることでしょう、というなら)
なぜ何年もかかるのだろうか?
時間の概念はあなたの心のなかだけにある。
それは真我のなかにはない。
真我にとって時間というものは存在しない。
自我が現れたあとで、時間という概念が起こるのだ。
だが、あなたは時間と空間を超えた真我である。
時間と空間の不在のなかでさえあなたは存在している。
もしあとになってそれを実現するというなら、それはつまり、今実現してい
ないということだ。
実現していないというその状態が、未来に再び起こるかもしれない。
なぜなら時間は限りないものだからだ。
それゆえ、そのような実現もつかの間のものでしかない。
しかし、それは真実ではない。
実現を一時的なものと考えることは誤りだ。
実現とは変化することのない永遠の状態なのである。(p59)
時間という概念
(真我の実現には何年もかかることでしょう、というなら)
なぜ何年もかかるのだろうか?
時間の概念はあなたの心のなかだけにある。
それは真我のなかにはない。
真我にとって時間というものは存在しない。
自我が現れたあとで、時間という概念が起こるのだ。
だが、あなたは時間と空間を超えた真我である。
時間と空間の不在のなかでさえあなたは存在している。
もしあとになってそれを実現するというなら、それはつまり、今実現してい
ないということだ。
実現していないというその状態が、未来に再び起こるかもしれない。
なぜなら時間は限りないものだからだ。
それゆえ、そのような実現もつかの間のものでしかない。
しかし、それは真実ではない。
実現を一時的なものと考えることは誤りだ。
実現とは変化することのない永遠の状態なのである。(p59)
実現とは
(真我の実現には何年もかかることでしょう、というなら)
なぜ何年もかかるのだろうか?
時間の概念はあなたの心のなかだけにある。
それは真我のなかにはない。
真我にとって時間というものは存在しない。
自我が現れたあとで、時間という概念が起こるのだ。
だが、あなたは時間と空間を超えた真我である。
時間と空間の不在のなかでさえあなたは存在している。
もしあとになってそれを実現するというなら、それはつまり、今実現してい
ないということだ。
実現していないというその状態が、未来に再び起こるかもしれない。
なぜなら時間は限りないものだからだ。
それゆえ、そのような実現もつかの間のものでしかない。
しかし、それは真実ではない。
実現を一時的なものと考えることは誤りだ。
実現とは変化することのない永遠の状態なのである。(p59)
時間や空間はあなたのなかにある
あなたはすでにそれなのだ。
時間や空間が真我に影響を与えることはない。
時間や空間はあなたのなかにある。
同じように、あなたが見ているあなたをとりまくすべてのものも、あなたの
なかに存在しているのである。(p59)
目的地にいる
(その状態に到達するため、何かできることがあるはずだ、というなら)
そこに目的地と、それへの道があるという観念自体が誤りである。
われわれはつねに目的地にいる。
われわれはつねに平和なのだ。
われわれが平和ではないという考えを取り除くことだけが必要なのである。(p60)
まだ得ていない
(すべての聖典が、グルによる指導は欠かせないと言っている、というなら)
グルは、今私が言うことと同じことを言うだけだろう。
あなたがまだ得ていない何かを彼が与えることはない。
まだ得ていないものを得ることはできない。
たとえそのような何かを得たとしても、それは得られたと同じように、やが
て失われてしまうだろう。
やってきたものは去っていく。
つねに存在するものだけがとどまるのである。
グルはあなたが持っていない新たな何かを与えるごとはでぎない。
まだ真我を実現していないという考えを取り除くことだけが必要なのだ。
われわれはつねに真我である。
ただそれに気づいていないだけである。(p60-61)
ジニャーナ・ドリシュティ@
われわれはアートマ(真我)の探究のために、
「アートマはどこだ? それはどこにあるのか?」
と言いながら駆けまわっている。
ついにジニャーナ・ドリシュティ(知識の洞察力)に達し、
「これがアートマだ。これこそが私だ」
と言うそのときまで。
われわれはその洞察力を得なければならない。
ひとたびこの洞察に達すれば、世俗に交わってそのなかで活動しようとも、
執着することはなくなるだろう。
ひとたび靴をはけば、岩や棟の多い道を歩いても痛みを感じることはない。
険しい山道も恐れずに歩くことができるだろう。
それと同じように、ジニャーナ・ドリシュティに達した人にとってはすべて
が自然になる。
自分自身の真我以外に何が存在するというのか?(p61)
知識の洞察力
われわれはアートマ(真我)の探究のために、
「アートマはどこだ? それはどこにあるのか?」
と言いながら駆けまわっている。
ついにジニャーナ・ドリシュティ(知識の洞察力)に達し、
「これがアートマだ。これこそが私だ」
と言うそのときまで。
われわれはその洞察力を得なければならない。
ひとたびこの洞察に達すれば、世俗に交わってそのなかで活動しようとも、
執着することはなくなるだろう。
ひとたび靴をはけば、岩や棟の多い道を歩いても痛みを感じることはない。
険しい山道も恐れずに歩くことができるだろう。
それと同じように、ジニャーナ・ドリシュティに達した人にとってはすべて
が自然になる。
自分自身の真我以外に何が存在するというのか?(p61)
ドリシュティ(洞察力)
われわれはアートマ(真我)の探究のために、
「アートマはどこだ? それはどこにあるのか?」
と言いながら駆けまわっている。
ついにジニャーナ・ドリシュティ(知識の洞察力)に達し、
「これがアートマだ。これこそが私だ」
と言うそのときまで。
われわれはその洞察力を得なければならない。
ひとたびこの洞察に達すれば、世俗に交わってそのなかで活動しようとも、
執着することはなくなるだろう。
ひとたび靴をはけば、岩や棟の多い道を歩いても痛みを感じることはない。
険しい山道も恐れずに歩くことができるだろう。
それと同じように、ジニャーナ・ドリシュティに達した人にとってはすべて
が自然になる。
自分自身の真我以外に何が存在するというのか?(p61)
心が静まれば
心が静まれば、世界全体が静まる。
心がすべての原因である。
それが静まれば、本来の自然な状態はひとりでに現れるだろう。
真我はそれ自身をつねに「私−私」として表している。
それは自ら輝きを放っている。
それはここに在る。
すべてがそれである。
われわれはただそのなかだけに存在している。
そのなかに在りながら、なぜ真我を探しまわるのか?
古代の聖者たちは言っている、
「視覚をジニャーナのなかに投入させることで、人は世界をブラフマンとし
て見る」
と。(p61)
心の本性
(心の本性とは何か、というなら)
心とは「私」という想念以外の何ものでもない。
心と自我はひとつであり、同一である。
知性や記憶といった他の精神的機能も「私」という想念でしかない。
心(マナス)、知性(ブツディ)、精神的傾向の貯蔵庫(チッタム)、そし
て自我(アハンカーラ)。
ただひとつの心がこれらすべての機能を兼ねている。
これはちょうどひとりの男に、異なった仕事によって異なった名前が与えら
れたようなものだ。
個人の魂(ジーヴァ)とは他でもないこの自我のことである。(p86)
「私」という想念@
(心の本性とは何か、というなら)
心とは「私」という想念以外の何ものでもない。
心と自我はひとつであり、同一である。
知性や記憶といった他の精神的機能も「私」という想念でしかない。
心(マナス)、知性(ブツディ)、精神的傾向の貯蔵庫(チッタム)、そし
て自我(アハンカーラ)。
ただひとつの心がこれらすべての機能を兼ねている。
これはちょうどひとりの男に、異なった仕事によって異なった名前が与えら
れたようなものだ。
個人の魂(ジーヴァ)とは他でもないこの自我のことである。(p86)
心/自我/知性/魂
(心の本性とは何か、というなら)
心とは「私」という想念以外の何ものでもない。
心と自我はひとつであり、同一である。
知性や記憶といった他の精神的機能も「私」という想念でしかない。
心(マナス)、知性(ブツディ)、精神的傾向の貯蔵庫(チッタム)、そし
て自我(アハンカーラ)。
ただひとつの心がこれらすべての機能を兼ねている。
これはちょうどひとりの男に、異なった仕事によって異なった名前が与えら
れたようなものだ。
個人の魂(ジーヴァ)とは他でもないこの自我のことである。(p86)
世界という現れの究極的原因
(どうすれば世界という現れの究極的原因、その本質である心の本性を見い
だすこせができるのか、というなら)
想念をその価値の順位に並べてみると、「私」という想念が最も重要だとい
うことがわかる。
人格という概念もまた、その他すべての想念の根や幹である。
それぞれの観念や想念は誰かの想念としてのみ起こり、自我から独立して存
在することはない。
それゆえ、自我が想念の活動を表すのだ。
二人称と三人称の代名詞(彼、あなた、あれなど)は、一人称の代名詞(私)
なしには存在しない。
それらは一人称が現れたあとにのみ現れる。
つまり三つの人称はともに現れ、ともに消えていくのである。
だからこそ、「私」あるいは人格の究極の原因をつき止めなさい。
この「私」はどこから湧き起こるのだろうか?
内面を深く探りなさい。
そうすれば、「私」は消え去る。
これが智慧のなす業である。
心がたゆまずその本性を調べるとき、心といったものは存在しないことが明
らかになる。
これこそがすべての人にとっての正道である。
心とは単なる想念にすぎない。
すべての想念のなかでは「私」という想念がその根本にある。
それゆえ、心とは「私」という想念以外の何ものでもないのだ。(p86)
智慧のなす業(わざ)
(どうすれば世界という現れの究極的原因、その本質である心の本性を見い
だすこせができるのか、というなら)
想念をその価値の順位に並べてみると、「私」という想念が最も重要だとい
うことがわかる。
人格という概念もまた、その他すべての想念の根や幹である。
それぞれの観念や想念は誰かの想念としてのみ起こり、自我から独立して存
在することはない。
それゆえ、自我が想念の活動を表すのだ。
二人称と三人称の代名詞(彼、あなた、あれなど)は、一人称の代名詞(私)
なしには存在しない。
それらは一人称が現れたあとにのみ現れる。
つまり三つの人称はともに現れ、ともに消えていくのである。
だからこそ、「私」あるいは人格の究極の原因をつき止めなさい。
この「私」はどこから湧き起こるのだろうか?
内面を深く探りなさい。
そうすれば、「私」は消え去る。
これが智慧のなす業である。
心がたゆまずその本性を調べるとき、心といったものは存在しないことが明
らかになる。
これこそがすべての人にとっての正道である。
心とは単なる想念にすぎない。
すべての想念のなかでは「私」という想念がその根本にある。
それゆえ、心とは「私」という想念以外の何ものでもないのだ。(p87-88)
人の誕生
「私」という想念の誕生が人の誕生である。
死とはその個人が死ぬことである。
「私」という想念が立ち現れたあと、身体との誤った同一化が起こる。
「私」という想念を取り除きなさい。
「私」が生き残っているかぎり、そこには苦しみがある。
「私」が存在をやめれば、苦しみもない。(p87-88)
尺取り虫
純粋な「私」は、二つの状態あるいは二つの想念の合間に体験される。
自我はまず一点をつかんでおいてからもう一点を離れる尺取り虫のようなも
のである。
その真の本性は、対象物あるいは想念との接触を断ち切られたときに明らか
になる。
実体をもたないこの幽霊のような自我は、ひとつの形態をつかむことによっ
て存在を現わし、形態をつかむことで生きつづける。
つかんだ形態によって養われながら、さらに大きくなっていき、ひとつの形
態を手放しながら別の形態をつかむ。
だが、探しだそうとすると、それは逃げだしてしまう。(p94)
一人称、二人称
一人称である「私は身体だ」という形態を取った自我が存在して、はじめて
二人称や三人称(あなた、彼、彼らなど)が存在するのである。
もし一人称の実体を精細に調べていくなら、一人称は破壊され、二人称、三
人称も消え去り、真我の真実の状態である自己の本性が輝きだすだろう。
「私はこの血と肉でできた身体だ」という想念の糸に、他のさまざまな想念
が結ばれている。
それゆえ、「この『私』はどこにあるのか?」と内面深く探っていけば、
「私」という想念を含めたすべての想念は死に絶え、自己知識がおのずと輝
きだすだろう。(p94)
瞑想と探求
瞑想には瞑想する対象が必要となる。
一方、ヴイチヤーラ(探求)においては対象がなく、主体だけがある。
ヴィチャーラと瞑想が異なるのはこのためである。(p95)
ディヤーナ(瞑想)
ディヤーナ(瞑想)は対象への集中である。
それは思考を脇道にそらさず、ひとつの想念に固定させるという目的を果た
す。
そのひとつの想念さえも真我の実現の前には消え去らなければならない。
しかし、実現は新たに獲得するような何かではない。
それはすでにそこにある。
ただ、想念のヴェールに覆われているだけなのだ。
われわれの試みは、すべてこのヴェールを取り去ることに向けられている。
そうすれば実現は顕わになるだろう。(p95)
想念のヴェール
ディヤーナ(瞑想)は対象への集中である。
それは思考を脇道にそらさず、ひとつの想念に固定させるという目的を果た
す。
そのひとつの想念さえも真我の実現の前には消え去らなければならない。
しかし、実現は新たに獲得するような何かではない。
それはすでにそこにある。
ただ、想念のヴェールに覆われているだけなのだ。
われわれの試みは、すべてこのヴェールを取り去ることに向けられている。
そうすれば実現は顕わになるだろう。(p95)
ヴィチャーラ
もし真理の探究者が瞑想するように勧められれば、誰もがそのアドバイスに
満足して立ち去ることだろう。
だが、彼らのなかには「対象に瞑想する、その『私』とは誰なのでしょうか?」
と尋ねる人がいるかもしれない。
そのような人こそ、真我を探究するように告げられるべきである。
これこそ究極的なものである。
これがヴィチャーラ(探求)である。(p95)
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