home > ラマナ・マハルシ辞書


書名: 『あるがままに  ラマナ・マハルシの教え

書誌:
編者  デーヴィッド・ゴッドマン
訳者  福間 巌
発行  株式会社ナチュラルスピリット(2005年12月7日発行)
       http://www.naturalspirit.co.jp/
索引:
 ラマナ・マハルシ辞書(『あるがままに』より)
引用:


スリシュティ(創造)

 (スリシュティ(創造)はどのようにして起こったのか、運命、神のリーラ
  (遊戯)、あるいは娯楽だと言われるが、何が真実なのか、というなら)
 聖典のなかにはさまざまな説明が見られる。
 だが、どこに創造があるというのだろう?
 もしそこに創造があるとするなら、それがどのように起こったかが説明され
 なければならない。
 われわれはこれらの理論については知らないかもしれないが、われわれが存
 在することは間違いなく知っている。
 まずその「私」を知りなさい。
 それから創造があるかどうかを見てみるがいい。(p318)


疑いはやむ

 (瞑想をしていると、ときどき至福を感じる。そのようなときは
  「この至福を体験しているのは誰か?」と自分自身に尋ねるべきなのか、
  というなら)
 
 もし体験された至福が真我の真の至福なら、
 つまり心が本当に真我のなかに溶け去ったのなら、
 このような疑いが起こることはありえない。
 質問自体が
 真の至福が達せられていなかったことを表している。
 疑う人と、その人の源が見いだされれば、
 すべての疑いはやむだろう。
 疑いをひとつずつ取り除いていっても無駄なことである。
 ひとつの疑いを解決しても、
 別の疑いが起こり、際限がないだろう。
 だが、もし疑う人の源を探っていけば、
 疑う人は、
 本当は存在していないことが知られる。
 そのときすべての疑いはやむのである。(p300)


内なる音を聞く

 (ときどき私は内なる音を聞く。そのようなことが起こったときは、どうす
  るべきか、というなら)
 
 何が起ころうとも、
 「誰がこの音を聞いているのか?」と尋ね、
 真理が達成されるまで真我への探究をつづけなさい。(p300)


至福に包まれて

 (ときおり、瞑想をしていると、至福に包まれて涙が湧き上がってくる。
  そういうときもあれば、何も感じないときもある。なぜか、というなら)
 
 至福とはつねにそこに在るものであり、
 来たり去ったりするものではない。
 去来するものは心の産物にすぎず、
 気にかけるべきではない。(p300)


創造(スリシュティ)

 (スリシュティ(創造)はどのようにして起こったのか、運命、神のリーラ
  (遊戯)、あるいは娯楽だと言われるが、何が真実なのか、というなら)
 聖典のなかにはさまざまな説明が見られる。
 だが、どこに創造があるというのだろう?
 もしそこに創造があるとするなら、それがどのように起こったかが説明され
 なければならない。
 われわれはこれらの理論については知らないかもしれないが、われわれが存
 在することは間違いなく知っている。
 まずその「私」を知りなさい。
 それから創造があるかどうかを見てみるがいい。(p318)


絶対的な真理

 (シュリー・シャンカラーチャーリヤのヴェーダーンタ哲学では、初心者の
  ために世界の創造の原理が受け入れられているが、より熟達した探求者に
  は非創造の原理が解かれている。この問題におけるあなたの見解は?)
 マハルシ
 「そこには世界の崩壊も創造もなく、束縛された人も霊的修練を積む人もい
  ない。
  解脱を求める人も解脱した人もいない。
  これが絶対的な真理である」。
 このシュローカ(聖典の一節)は『ガウダパーダ・カーリカー』の第2章に
 見られる。
 真我のなかに確立された人は、自らの真理の知識によってこれを知るのであ
 る。(p318)


真我創造@

 (この世界は真我によって創造されたのではないか、というなら)
 真我自身が多様な名称と形態の世界として現れたのであって、真我が世界の
 創造、維持、破壊という行為(ニミッタ・カーラナ)をするのではない。
 「どうして真我が真実を知らずに混乱して、それ自身を世界として現したの
 か?」と尋ねるよりも、「この混乱は誰にとって起こったのか?」と探求し
 ていきなさい。
 そうすれば、このような混乱が真我に起こったことはないと知るだろう。(p319)


真我混乱

 (この世界は真我によって創造されたのではないか、というなら)
 真我自身が多様な名称と形態の世界として現れたのであって、真我が世界の
 創造、維持、破壊という行為(ニミッタ・カーラナ)をするのではない。
 「どうして真我が真実を知らずに混乱して、それ自身を世界として現したの
 か?」と尋ねるよりも、「この混乱は誰にとって起こったのか?」と探求し
 ていきなさい。
 そうすれば、このような混乱真我に起こったことはないと知るだろう。(p319)


混乱は誰にとって起こったのか?

 (この世界は真我によって創造されたのではないか、というなら)
 真我自身が多様な名称と形態の世界として現れたのであって、真我が世界の
 創造、維持、破壊という行為(ニミッタ・カーラナ)をするのではない。
 「どうして真我が真実を知らずに混乱して、それ自身を世界として現したの
 か?」と尋ねるよりも、「この混乱は誰にとって起こったのか?」と探求し
 ていきなさい。
 そうすれば、このような混乱が真我に起こったことはないと知るだろう。(p319)


アジャータ教義

 (どうやらあなたはアドヴァイタ・ヴェーダーンタのアジャータ教義の主唱
  者のようですね、というなら)
 私はアジャータ教義だけを教えてはいない。
 私はすべての教義を承認している。
 教えを聞く者の許容量にしたがって同じ真理が異なった方法で表現されなけ
 ればならない。
 アジャータ教義は、「ただひとつの真理だけが存在する。誕生も死もなく、
 世界を投影することも、世界から退くこともない。真理の探究者も、束縛も、
 解脱もない。ただ至高の一者だけが存在する」と説く。
 この真理を理解することが困難な者たちは、「どうして私たちを取り巻くこ
 の堅固な世界を無視することができましょう」と言う。
 彼らには夢見の体験が指摘され、「あなたが見ているものすべては見る者に
 依存している。見る者なしには見られるものもない」と説かれるのである。
 これはドリシュティ−スリシュティ・ヴァーダと呼ばれる。(p319-320)


聞く者の許容量

 私はすべての教義を承認している。
 教えを聞く者の許容量にしたがって同じ真理が異なった方法で表現されなけ
 ればならない。
 アジャータ教義は、「ただひとつの真理だけが存在する。誕生も死もなく、
 世界を投影することも、世界から退くこともない。真理の探究者も、束縛も、
 解脱もない。ただ至高の一者だけが存在する」と説く。
 この真理を理解することが困難な者たちは、「どうして私たちを取り巻くこ
 の堅固な世界を無視することができましょう」と言う。
 彼らには夢見の体験が指摘され、「あなたが見ているものすべては見る者に
 依存している。見る者なしには見られるものもない」と説かれるのである。
 これはドリシュティ−スリシュティ・ヴァーダと呼ばれる。(p319-320)


ドリシュティ−スリシュティ

 私はすべての教義を承認している。
 教えを聞く者の許容量にしたがって同じ真理が異なった方法で表現されなけ
 ればならない。
 アジャータ教義は、「ただひとつの真理だけが存在する。誕生も死もなく、
 世界を投影することも、世界から退くこともない。真理の探究者も、束縛も、
 解脱もない。ただ至高の一者だけが存在する」と説く。
 この真理を理解することが困難な者たちは、「どうして私たちを取り巻くこ
 の堅固な世界を無視することができましょう」と言う。
 彼らには夢見の体験が指摘され、「あなたが見ているものすべては見る者に
 依存している。見る者なしには見られるものもない」と説かれるのである。
 これはドリシュティ−スリシュティ・ヴァーダと呼ばれる。(p319-320)
***


創造の目的

 (創造の目的とは何か、というなら)
 
 それはこの質問をもたらすことにある。
 この質問を調べなさい。
 そしてついには至高なるもの、あるいはすべての源の内にとどまりなさい。
 調べ入ることはそれ自体を真我探究のなかに溶かし去り、真我探究は真我で
 はないものすべてがぬぐい去られてはじめて終焉する。
 そして真我はその純粋性と輝きのなかで実現されるのである。(p321)


創造の理論A

 創造の理論はいくらでもある。
 それらすべては外側へと拡張していくものだ。
 それには限りがないだろう。
 なぜなら、時間と空間は無限だからである。
 しかしながら、それらはみな心のなかにしか存在していない。
 もし心を見いだそうとすれば時間と空間は超越され、真我が実現される。
 
 創造は個人の満足のために理論的あるいは科学的に説明される。
 だが、決定的なものがありうるだろうか?
 そのような説明はクラマ−スリシュティ(段階的創造)と呼ばれる。
 その反対に、ドリシュティ−スリシュティ(同時的創造)はユガパト−スリ
 シュティである。
 見る者なしには見られるものも存在しない。
 見る者を見いだしなさい。
 創造は見る者のなかに含まれているからである。
 なぜ外側を見つづけ、果てのない現象を説明しつづけるのか?(p322)


創造見る者

 創造は個人の満足のために理論的あるいは科学的に説明される。
 だが、決定的なものがありうるだろうか?
 そのような説明はクラマ−スリシュティ(段階的創造)と呼ばれる。
 その反対に、ドリシュティ−スリシュティ(同時的創造)はユガパト−スリ
 シュティである。
 見る者なしには見られるものも存在しない。
 見る者を見いだしなさい。
 創造見る者のなかに含まれているからである。
 なぜ外側を見つづけ、果てのない現象を説明しつづけるのか?(p322)
***


創造の謎を解く

 (自分は創造の一部分を形成していて、独立するまでは創造の謎を解くこと
  ができない、というなら)
 そうだ。
 「独立しなさい。
  そしてあなた自身でその謎を解くがいい。
  それはあなたがすることだ」
 と言っているのはバガヴァーンである。
 この質問をしているあなたは今どこにいるのか?
 あなたは世界のなかにいるのだろうか、それともあなたのなかに世界が在る
 のだろうか?
 あなたは眠りの間も自分が存在していることを否定できないが、世界が知覚
 されていないことを認めるに違いない。
 その世界はあなたが目覚めるときに現れる。
 では、それはどこにあるのだろうか?
 明らかに世界はあなたの想念なのだ。
 想念とはあなたが投影したものである。
 はじめに「私」が創造され、それから世界が創造される。
 世界は「私」によって創造され、「私」は真我から立ち現れる。
 そのため、もしあなたが「私」の創造を解明すれば、世界の創造の謎も解明
 されるのである。
 それゆえ、私は言うのだ。
 「真我を探求しなさい」と。(p323)


独立しなさい

 (自分は創造の一部分を形成していて、独立するまでは創造の謎を解くこと
  ができない、というなら)
 そうだ。
 「独立しなさい。
  そしてあなた自身でその謎を解くがいい。
  それはあなたがすることだ」
 と言っているのはバガヴァーンである。
 この質問をしているあなたは今どこにいるのか?
 あなたは世界のなかにいるのだろうか、それともあなたのなかに世界が在る
 のだろうか?
 あなたは眠りの間も自分が存在していることを否定できないが、世界が知覚
 されていないことを認めるに違いない。
 その世界はあなたが目覚めるときに現れる。
 では、それはどこにあるのだろうか?
 明らかに世界はあなたの想念なのだ。
 想念とはあなたが投影したものである。
 はじめに「私」が創造され、それから世界が創造される。
 世界は「私」によって創造され、「私」は真我から立ち現れる。
 そのため、もしあなたが「私」の創造を解明すれば、世界の創造の謎も解明
 されるのである。
 それゆえ、私は言うのだ。
 「真我を探求しなさい」と。(p323)


世界はあなたの想念

 (自分は創造の一部分を形成していて、独立するまでは創造の謎を解くこと
  ができない、というなら)
 そうだ。
 「独立しなさい。
  そしてあなた自身でその謎を解くがいい。
  それはあなたがすることだ」
 と言っているのはバガヴァーンである。
 この質問をしているあなたは今どこにいるのか?
 あなたは世界のなかにいるのだろうか、それともあなたのなかに世界が在る
 のだろうか?
 あなたは眠りの間も自分が存在していることを否定できないが、世界が知覚
 されていないことを認めるに違いない。
 その世界はあなたが目覚めるときに現れる。
 では、それはどこにあるのだろうか?
 明らかに世界はあなたの想念なのだ。
 想念とはあなたが投影したものである。
 はじめに「私」が創造され、それから世界が創造される。
 世界は「私」によって創造され、「私」は真我から立ち現れる。
 そのため、もしあなたが「私」の創造を解明すれば、世界の創造の謎も解明
 されるのである。
 それゆえ、私は言うのだ。
 「真我を探求しなさい」と。(p323)


質問者は

 今一度言おう。
 世界があなたのもとへ来て、「なぜ『私』は存在するのか? 『私』はどう
 して創造されたのか?」と尋ねるだろうか?
 その質問をするのはあなたである。
 質問者は彼自身と世界との関係を確立しなければならない。
 彼は世界が彼自身の想像であることを認めざるをえない。
 いったい誰がそれを想像するのだろうか?
 彼に「私」を探させ、それから真我を探させるがいい。
 そのうえ、科学的、神学的説明はどれも一致するものがない。
 そのような理論の多様性が、説明を探し求めることの無益さを明白に示して
 いる。
 そのような説明は、単に精神的あるいは知的なもの以上の何ものでもない。
 それでも個人の観点にしたがって見れば、それらすべては真実なのである。(p323-324)


理論の多様性

 今一度言おう。
 世界があなたのもとへ来て、「なぜ『私』は存在するのか? 『私』はどう
 して創造されたのか?」と尋ねるだろうか?
 その質問をするのはあなたである。
 質問者は彼自身と世界との関係を確立しなければならない。
 彼は世界が彼自身の想像であることを認めざるをえない。
 いったい誰がそれを想像するのだろうか?
 彼に「私」を探させ、それから真我を探させるがいい。
 そのうえ、科学的、神学的説明はどれも一致するものがない。
 そのような理論の多様性が、説明を探し求めることの無益さを明白に示して
 いる。
 そのような説明は、単に精神的あるいは知的なもの以上の何ものでもない。
 それでも個人の観点にしたがって見れば、それらすべては真実なのである。(p323-324)


真我創造A

 真我の実現された状態のなかに創造はない。
 人が世界を見るとき、人は真我を見ていない。
 人が真我を見るとき、世界は見られていない。
 だから、真我を見なさい。
 そして創造はなかったのだと悟りなさい。(p324)


世界を見るとき

 真我の実現された状態のなかに創造はない。
 人が世界を見るとき、人は真我を見ていない。
 人が真我を見るとき世界は見られていない。
 だから、真我を見なさい。
 そして創造はなかったのだと悟りなさい。(p324)


真我を見なさいA

 真我の実現された状態のなかに創造はない。
 人が世界を見るとき、人は真我を見ていない。
 人が真我を見るとき、世界は見られていない。
 だから、真我を見なさい。
 そして創造はなかったのだと悟りなさい。(p324)


創造はなかった

 真我の実現された状態のなかに創造はない。
 人が世界を見るとき、人は真我を見ていない。
 人が真我を見るとき、世界は見られていない。
 だから、真我を見なさい。
 そして創造はなかったのだと悟りなさい。(p324)


シャンカラーチャーリヤ@

 (「ブラフマンは真理である。世界(ジャガト)は幻想である」とは
  シュリー・シャンカラーチャーリヤの常套句だ。しかし、別の人たちは
  「世界は実在である」と言う。どちらが真実なのか、というなら)
 
 どちらの言葉も真実である。
 それらは異なった霊性の段階について、異なった視点から語られたものであ
 る。
 真理の探究者(アビヤーシ)は、「つねに存在するものが実在である」とい
 う定義から進みはじめる。
 それから彼は世界を非実在として捨て去る。
 なぜなら世界は変化するものだからである。
 このように、変化するものを非実在として捨て去っていくことで、探究者は
 究極的に真我にたどり着く。
 その実現のなかで、彼はすべての存在がひとつとして在ることを見いだす。
 そのとき、最初に非実在として捨て去られたものも、ひとつとして在ること
 の一部分だったことが理解されるのである。
 実在のなかに吸収されれば、世界もまた実在である。
 真我の実現のなかではただ存在だけがあり、他には何もない。(p324-325)


世界(ジャガト)は幻想

 (「ブラフマンは真理である。世界(ジャガト)は幻想である」とは
  シュリー・シャンカラーチャーリヤの常套句だ。しかし、別の人たちは
  「世界は実在である」と言う。どちらが真実なのか、というなら)
 
 どちらの言葉も真実である。
 それらは異なった霊性の段階について、異なった視点から語られたものであ
 る。
 真理の探究者(アビヤーシ)は、「つねに存在するものが実在である」とい
 う定義から進みはじめる。
 それから彼は世界を非実在として捨て去る。
 なぜなら世界は変化するものだからである。
 このように、変化するものを非実在として捨て去っていくことで、探究者は
 究極的に真我にたどり着く。
 その実現のなかで、彼はすべての存在がひとつとして在ることを見いだす。
 そのとき、最初に非実在として捨て去られたものも、ひとつとして在ること
 の一部分だったことが理解されるのである。
 実在のなかに吸収されれば、世界もまた実在である。
 真我の実現のなかではただ存在だけがあり、他には何もない。(p324-325)


つねに存在するもの

 (「ブラフマンは真理である。世界(ジャガト)は幻想である」とは
  シュリー・シャンカラーチャーリヤの常套句だ。しかし、別の人たちは
  「世界は実在である」と言う。どちらが真実なのか、というなら)
 
 どちらの言葉も真実である。
 それらは異なった霊性の段階について、異なった視点から語られたものであ
 る。
 真理の探究者(アビヤーシ)は、「つねに存在するものが実在である」とい
 う定義から進みはじめる。
 それから彼は世界を非実在として捨て去る。
 なぜなら世界は変化するものだからである。
 このように、変化するものを非実在として捨て去っていくことで、探究者は
 究極的に真我にたどり着く。
 その実現のなかで、彼はすべての存在がひとつとして在ることを見いだす。
 そのとき、最初に非実在として捨て去られたものも、ひとつとして在ること
 の一部分だったことが理解されるのである。
 実在のなかに吸収されれば、世界もまた実在である。
 真我の実現のなかではただ存在だけがあり、他には何もない。(p324-325)


世界は変化するもの

 (「ブラフマンは真理である。世界(ジャガト)は幻想である」とは
  シュリー・シャンカラーチャーリヤの常套句だ。しかし、別の人たちは
  「世界は実在である」と言う。どちらが真実なのか、というなら)
 
 どちらの言葉も真実である。
 それらは異なった霊性の段階について、異なった視点から語られたものであ
 る。
 真理の探究者(アビヤーシ)は、「つねに存在するものが実在である」とい
 う定義から進みはじめる。
 それから彼は世界を非実在として捨て去る。
 なぜなら世界は変化するものだからである。
 このように、変化するものを非実在として捨て去っていくことで、探究者は
 究極的に真我にたどり着く。
 その実現のなかで、彼はすべての存在がひとつとして在ることを見いだす。
 そのとき、最初に非実在として捨て去られたものも、ひとつとして在ること
 の一部分だったことが理解されるのである。
 実在のなかに吸収されれば、世界もまた実在である。
 真我の実現のなかではただ存在だけがあり、他には何もない。(p324-325)


世界もまた実在

 (「ブラフマンは真理である。世界(ジャガト)は幻想である」とは
  シュリー・シャンカラーチャーリヤの常套句だ。しかし、別の人たちは
  「世界は実在である」と言う。どちらが真実なのか、というなら)
 
 どちらの言葉も真実である。
 それらは異なった霊性の段階について、異なった視点から語られたものであ
 る。
 真理の探究者(アビヤーシ)は、「つねに存在するものが実在である」とい
 う定義から進みはじめる。
 それから彼は世界を非実在として捨て去る。
 なぜなら世界は変化するものだからである。
 このように、変化するものを非実在として捨て去っていくことで、探究者は
 究極的に真我にたどり着く。
 その実現のなかで、彼はすべての存在がひとつとして在ることを見いだす。
 そのとき、最初に非実在として捨て去られたものも、ひとつとして在ること
 の一部分だったことが理解されるのである。
 実在のなかに吸収されれば、世界もまた実在である。
 真我の実現のなかではただ存在だけがあり、他には何もない。(p324-325)


マーヤー(幻想)と実在

 (バガヴァーンはマーヤー(幻想)と実在が同じものだと言われる。
  どうしてそれが可能なのか、というなら)
 
 シャンカラーチャーリヤは彼のマーヤーの見解について、人びとから理解さ
 れないまま批判された。
 彼はこのように言った。
  (1)ブラフマンは実在である、
  (2)宇宙は非実在である、そして
  (3)宇宙はブラフマンである
 彼は第二番目のところで止まらなかった。
 なぜなら、第三番目が他の二つを説明しているからである。
 それは、もし真我として知覚されれば宇宙は実在であり、真我から分離した
 ものとして知覚されれば宇宙は非実在だということを意味している。
 したがって、マーヤーと実在はひとつであり、同じものなのである。(p325)


幻想と実在が同じもの

 (バガヴァーンはマーヤー(幻想)と実在が同じものだと言われる。
  どうしてそれが可能なのか、というなら)
 
 シャンカラーチャーリヤは彼のマーヤーの見解について、人びとから理解さ
 れないまま批判された。
 彼はこのように言った。
  (1)ブラフマンは実在である、
  (2)宇宙は非実在である、そして
  (3)宇宙はブラフマンである
 彼は第二番目のところで止まらなかった。
 なぜなら、第三番目が他の二つを説明しているからである。
 それは、もし真我として知覚されれば宇宙は実在であり、真我から分離した
 ものとして知覚されれば宇宙は実在在だということを意味している。
 したがって、マーヤーと実在はひとつであり、同じものなのである。(p325)


シャンカラーチャーリヤA

 シャンカラーチャーリヤは彼のマーヤーの見解について、人びとから理解さ
 れないまま批判された。
 彼はこのように言った。
  (1)ブラフマンは実在である、
  (2)宇宙は非実在である、そして
  (3)宇宙はブラフマンである
 彼は第二番目のところで止まらなかった。
 なぜなら、第三番目が他の二つを説明しているからである。
 それは、もし真我として知覚されれば宇宙は実在であり、真我から分離した
 ものとして知覚されれば宇宙は非実在だということを意味している。
 したがって、マーヤーと実在はひとつであり、同じものなのである。(p325)


探究者の段階では

 真理の探究者の段階では、あなたは世界が幻想だと言わねばならないだろう。
 他に道はない。
 ある人が、自分は実在であり、永遠に、すべてに遍在するブラフマンだとい
 うことを忘れ、はかない身体であふれた宇宙のなかのひとつの身体を自分自
 身だと思いこんで、その迷妄ゆえに苦しんでいるとき、あなたは彼に世界は
 非実在でしかなく、それは迷妄なのだということを気づかせなければならな
 い。
 なぜか?
 なぜなら、真我を忘れた彼の視野は、外側の物理的な世界のなかに浸ってい
 るからである。
 あなたが外側の物理的な世界は非実在だということを彼の心に焼きつけない
 かぎり、彼が内側に向かい内観することはないだろう。
 ひとたび彼が真我を実現すれば、彼自身の真我以外に存在するものは何もな
 いと知るだろう。
 そして彼は宇宙全体をブラフマンとして見るようになるだろう。
 真我を離れて宇宙は存在しないからである。
 人が、すべての源である真我を見ずに、外側の世界だけを実在で不変のもの
 として見ているかぎり、あなたは彼にこの外側の宇宙は幻想でしかないと伝
 えなければならない。
 それはどうすることもできないのだ。(p325-326)


他に道はない

 真理の探究者の段階では、あなたは世界が幻想だと言わねばならないだろう。
 他に道はない。
 ある人が、自分は実在であり、永遠に、すべてに遍在するブラフマンだとい
 うことを忘れ、はかない身体であふれた宇宙のなかのひとつの身体を自分自
 身だと思いこんで、その迷妄ゆえに苦しんでいるとき、あなたは彼に世界は
 非実在でしかなく、それは迷妄なのだということを気づかせなければならな
 い。
 なぜか?
 なぜなら、真我を忘れた彼の視野は、外側の物理的な世界のなかに浸ってい
 るからである。
 あなたが外側の物理的な世界は非実在だということを彼の心に焼きつけない
 かぎり、彼が内側に向かい内観することはないだろう。
 ひとたび彼が真我を実現すれば、彼自身の真我以外に存在するものは何もな
 いと知るだろう。
 そして彼は宇宙全体をブラフマンとして見るようになるだろう。
 真我を離れて宇宙は存在しないからである。
 人が、すべての源である真我を見ずに、外側の世界だけを実在で不変のもの
 として見ているかぎり、あなたは彼にこの外側の宇宙は幻想でしかないと伝
 えなければならない。
 それはどうすることもできないのだ。(p325-326)


紙に気づく人

 を見てみなさい。
 われわれは文字だけを見ている。
 文字が書かれている紙に気づく人はいない。
 文字がそこにあろうとなかろうと、はそこに在る。
 あなたは文字だけを実在と見なしている人に、それはただの上に載ってい
 るだけで非実在、幻想なのだと言わねばならない。
 賢者はと文字をひとつと見なす。
 それゆえ、ブラフマンと宇宙もひとつとして見るのである。(p326)


炎が煙で隠されてしまうように

 (それでは、真我として体験されたとき世界は実在であり、個々に分離した
  名前と形として見られたとき世界は非実在なのか、というなら)
 
 炎が煙で隠されてしまうように、意識の輝く光は世界という名前と形の集ま
 りで隠されてしまう。
 慈悲深き神の恩寵によって心が清らかになったとき、世界の本性は幻想とし
 てではなく、ただ実在として知られるのである。(p326-327)


「世界は実在である」という言葉の意味

 心がマーヤーの邪悪な力から解放され、世界の知識を捨て去って無執着とな
 り、自ら輝く至高の実在の知識に到達した人だけが、「世界は実在である」
 という言葉の意味を正しく知ることができるのだ。
 もし真理の知識の本質に沿って世界観が変容すれば、エーテル(アーカーシ
 ャ)から始まる五つの元素でできた世界は至高の真理の実在として見られる
 だろう。(p327)


原初の状態

 多くの名前と形であふれかえり混雑した、この空なる世界の原初の状態は至
 福であり、多様な色彩のクジャクの卵の黄身が単一であるように、それも単
 一である。
 真我の内に在ることで、この真理を知りなさい。(p327)


真理のみを求めるならば

 (さまざまな方法で見、感じ、触れているこの世界はなにか夢のようなもの、
  幻想なのかというなら)
  
 もしあなたが真理を、ただ真理のみを求めるならば、世界を非実在として受
 け入れる以外に方法はない。(p327)


心はいつも世界を

 (ただ真理のみを求めるなら、世界を非実在として受け入れる以外にないと
  いうのは、なぜか、というなら)
  
 その理由は明らかだ。
 世界が実在だという考えをあなたが捨て去らないかぎり、あなたの心はいつ
 も世界を追い求めるからである。
 存在するものは実在だけであるにもかかわらず、現れを実在と見なせば、実
 在そのものを知ることはけっしてできないだろう。
 このことが「ロープのなかの蛇」という類比によって説明されている。
 あなたは騙(だま)されて一本のロープを蛇だと信じこむかもしれない。
 そこに蛇を見ているかぎり、ロープを見ることはない。
 あなたにとっては実在しない蛇が実在し、本物のロープがまったく実在して
 いないように見えるのである。(p327)


現れを実在と見なせば

 (ただ真理のみを求めるなら、世界を非実在として受け入れる以外にないと
  いうのは、なぜか、というなら)
 その理由は明らかだ。
 世界が実在だという考えをあなたが捨て去らないかぎり、あなたの心はいつ
 も世界を追い求めるからである。
 存在するものは実在だけであるにもかかわらず、現れを実在と見なせば、実
 在そのものを知ることはけっしてできないだろう。
 このことが「ロープのなかの蛇」という類比によって説明されている。
 あなたは騙(だま)されて一本のロープを蛇だと信じこむかもしれない。
 そこに蛇を見ているかぎり、ロープを見ることはない。
 あなたにとっては実在しない蛇が実在し、本物のロープがまったく実在して
 いないように見えるのである。(p327)


ロープのなかの蛇

 (ただ真理のみを求めるなら、世界を非実在として受け入れる以外にないと
  いうのは、なぜか、というなら)
  
 その理由は明らかだ。
 世界が実在だという考えをあなたが捨て去らないかぎり、あなたの心はいつ
 も世界を追い求めるからである。
 存在するものは実在だけであるにもかかわらず、現れを実在と見なせば、実
 在そのものを知ることはけっしてできないだろう。
 このことが「ロープのなかの蛇」という類比によって説明されている。
 あなたは騙(だま)されて一本のロープだと信じこむかもしれない。
 そこにを見ているかぎり、ロープを見ることはない。
 あなたにとっては実在しないが実在し、本物のロープがまったく実在して
 いないように見えるのである。(p327)


夢でさえも実在

 (究極的には世界が非実在だということを試みに受け入れることはできても、
  それが本当に非実在だという確信するのは難しい、というなら)
 
 あなたが夢を見ている問は、その夢でさえも実在なのだ。
 がつづいているかぎり、あなたが見たり感じたりするものはすべて実在で
 ある。(p328)


不可能な夢

 あなたがを見ている問に、実在としての感覚のなかで何かおかしいと感じ
 ることはないだろうか?
 あなたが何かまったく不可能な夢、例えば、死んだはずの人と会話をするよ
 うなを見たとしよう。
 一瞬あなたはのなかでそのを疑って自分自身に言うだろう。
 「彼は死んだのではなかったか?」。
 けれどもあなたの心は、何とかしてそののできごとと和解して、の目的
 に合わせてその人が生きていてもよいとする。
 つまりとして、あなたがその実在を疑うことを許さないのである。
 でさえそうであるから、ましてあなたが目覚めの間に体験している世界の
 実在性を疑うことはできない。
 心自体が創り出した世界を、どうして心が非実在として受け入れることがで
 きよう。
 これが見の世界と目覚めの世界を比較した理由である。
 どちらも心の産物なのである。
 心がどちらかに没頭しているかぎり、どちらの実在性も疑うことができない。
 を見ている間は見の世界の実在性を疑えず、目覚めているときは目覚め
 の世界の実在性を疑うことができない。
 反対に、もしあなたが心を完全に世界から引っこめて内側に向かい、そこに
 とどまるならば、つまりもしあなたがつねにすべての体験の根底である真我
 に目覚めつづけるなら、あなたが今気づいている世界は、あなたが見のな
 かで生きていた世界と同じように非実在であることがわかるだろう。(p328-329)


実在性を疑う

 あなたが夢を見ている問に、実在としての感覚のなかで何かおかしいと感じ
 ることはないだろうか?
 あなたが何かまったく不可能な夢、例えば、死んだはずの人と会話をするよ
 うな夢を見たとしよう。
 一瞬あなたは夢のなかでその夢をって自分自身に言うだろう。
 「彼は死んだのではなかったか?」。
 けれどもあなたの心は、何とかしてその夢のできごとと和解して、夢の目的
 に合わせてその人が生きていてもよいとする。
 つまり夢は夢として、あなたがその実在を疑うことを許さないのである。
 夢でさえそうであるから、ましてあなたが目覚めの間に体験している世界の
 実在性を疑うことはできない。
 心自体が創り出した世界を、どうして心が非実在として受け入れることがで
 きよう。
 これが夢見の世界と目覚めの世界を比較した理由である。
 どちらも心の産物なのである。
 心がどちらかに没頭しているかぎり、どちらの実在性疑うことができない。
 夢を見ている間は夢見の世界の実在性を疑えず、目覚めているときは目覚め
 の世界の実在性を疑うことができない。
 反対に、もしあなたが心を完全に世界から引っこめて内側に向かい、そこに
 とどまるならば、つまりもしあなたがつねにすべての体験の根底である真我
 に目覚めつづけるなら、あなたが今気づいている世界は、あなたが夢見のな
 かで生きていた世界と同じように非実在であることがわかるだろう。(p328-329)


世界の実在性

 あなたが夢を見ている問に、実在としての感覚のなかで何かおかしいと感じ
 ることはないだろうか?
 あなたが何かまったく不可能な夢、例えば、死んだはずの人と会話をするよ
 うな夢を見たとしよう。
 一瞬あなたは夢のなかでその夢を疑って自分自身に言うだろう。
 「彼は死んだのではなかったか?」。
 けれどもあなたの心は、何とかしてその夢のできごとと和解して、夢の目的
 に合わせてその人が生きていてもよいとする。
 つまり夢は夢として、あなたがその実在を疑うことを許さないのである。
 夢でさえそうであるから、ましてあなたが目覚めの間に体験している世界の
 実在性を疑うことはできない。
 心自体が創り出した世界を、どうして心が非実在として受け入れることがで
 きよう。
 これが夢見の世界と目覚めの世界を比較した理由である。
 どちらも心の産物なのである。
 心がどちらかに没頭しているかぎり、どちらの実在性も疑うことができない。
 夢を見ている間は夢見の世界の実在性を疑えず、目覚めているときは目覚め
 の世界の実在性を疑うことができない。
 反対に、もしあなたが心を完全に世界から引っこめて内側に向かい、そこに
 とどまるならば、つまりもしあなたがつねにすべての体験の根底である真我
 に目覚めつづけるなら、あなたが今気づいている世界は、あなたが夢見のな
 かで生きていた世界と同じように非実在であることがわかるだろう。(p328-329)


夢のなかで喉が渇いた

 あなたが夢を見ている間、夢はひとつの完全に統合された統一体としてあっ
 た。
 つまり、夢のなかで喉が渇いたとき、幻の水を幻に飲んでも、幻の渇きは癒
 されたのである。
 だが夢自体が幻想だと知らないかぎり、このことはあなたにとって真実であ
 り、幻想ではない。
 目覚めの世界についても同じことが言える。
 あなたの今の感覚が、世界は実在であるという印象をあなたに与えるように
 調整しているのである。(p329)


幻の水を幻に飲んでも

 あなたが夢を見ている間、夢はひとつの完全に統合された統一体としてあっ
 た。
 つまり、夢のなかで喉が渇いたとき、幻の水を幻に飲んでも幻の渇きは癒
 されたのである。
 だが夢自体が想だと知らないかぎり、このことはあなたにとって真実であ
 り、想ではない。
 目覚めの世界についても同じことが言える。
 あなたの今の感覚が、世界は実在であるという印象をあなたに与えるように
 調整しているのである。(p329)


世界がそれ自体で独立した実在なら

 もし世界がそれ自体で独立した実在ならば、眠っているとき、なぜ世界は現
 れないのだろうか?
 眠りのなかであなたが存在していなかったと言うことはできない。(p329)


他者の証言

 (私が眠っている間に見なかったとしても、他の眠っていない人たちが世界
  を見ていることが世界の存在の証拠だ、というなら)
 
 眠っている間もあなたが存在していたというために、それを証明してくれる
 他者の証言が必要だろうか?
 なぜあなたは今その証言を求めるのかね?
 あなたが眠っている問に、他者が世界を見たと告げることができるのも、あ
 なた自身が目覚めているときだけである。
 あなた自身の存在に関しては別である。
 目を覚ましたとき、あなたはよく眠ったと言う。
 そう言えるということは、最も深い眠りのなかで、あなたはあなた自身に気
 づいていたのだ。
 ところが世界の存在についてはまったく気づいていなかった。
 目覚めている今でさえ、「私は実在だ」と言っているのは世界だろうか、そ
 れともあなただろうか?(p330)


あなた世界

 (私が眠っている間に見なかったとしても、他の眠っていない人たちが世界
  を見ていることが世界の存在の証拠だ、というなら)
 
 眠っている間もあなたが存在していたというために、それを証明してくれる
 他者の証言が必要だろうか?
 なぜあなたは今その証言を求めるのかね?
 あなたが眠っている問に、他者が世界を見たと告げることができるのも、あ
 なた自身が目覚めているときだけである。
 あなた自身の存在に関しては別である。
 目を覚ましたとき、あなたはよく眠ったと言う。
 そう言えるということは、最も深い眠りのなかで、あなたあなた自身に気
 づいていたのだ。
 ところが世界の存在についてはまったく気づいていなかった。
 目覚めている今でさえ、「私は実在だ」と言っているのは世界だろうか、そ
 れともあなただろうか?(p330)


世界の存在

 (私が眠っている間に見なかったとしても、他の眠っていない人たちが世界
  を見ていることが世界の存在の証拠だ、というなら)
 
 眠っている間もあなたが存在していたというために、それを証明してくれる
 他者の証言が必要だろうか?
 なぜあなたは今その証言を求めるのかね?
 あなたが眠っている問に、他者が世界を見たと告げることができるのも、あ
 なた自身が目覚めているときだけである。
 あなた自身の存在に関しては別である。
 目を覚ましたとき、あなたはよく眠ったと言う。
 そう言えるということは、最も深い眠りのなかで、あなたはあなた自身に気
 づいていたのだ。
 ところが世界の存在についてはまったく気づいていなかった。
 目覚めている今でさえ、「私は実在だ」と言っているのは世界だろうか、そ
 れともあなただろうか?(p330)


世界は無視している

 目覚めている今でさえ、「私は実在だ」と言っているのは世界だろうか、そ
 れともあなただろうか?
 
 (もちろんそれを言うのは私だが、私は世界について言っている、というなら)
  
 なるほど、あなたは世界が実在だと言う。
 だとすれば、自分自身の実在性についてさえ無知なあなたが、世界の実在性
 を証明しようとしていることを、世界は無視しているのである。(p330)


実在性の基準

 いずれにせよ、あなたは世界が実在であると主張したがっている。
 その実在性の基準とは何だろうか?
 何にも依存せずそれ自体で存在し、それ自身によってそれ自身を現すもの、
 そして永遠で不変なるもの、それが実在である。(p330)


不変の付随関係

 世界はそれ自身で存在するだろうか?
 世界が心の助けなしに見られたことがかつてあっただろうか?
 眠りのなかでは心も世界も存在しない。
 目が覚めれば心があり、世界が存在する。
 この不変の付随関係は何を意味するのだろうか?
 あなたは科学研究の基礎そのものと見なされている帰納法の原理を良く知っ
 ているだろう。
 世界の実在性についてのこの問いを、なぜこの一般的な論理の光のなかで解
 決しないのか?(p330-331)


帰納法の原理

 世界はそれ自身で存在するだろうか?
 世界が心の助けなしに見られたことがかつてあっただろうか?
 眠りのなかでは心も世界も存在しない。
 目が覚めれば心があり、世界が存在する。
 この不変の付随関係は何を意味するのだろうか?
 あなたは科学研究の基礎そのものと見なされている帰納法の原理を良く知っ
 ているだろう。
 世界の実在性についてのこの問いを、なぜこの一般的な論理の光のなかで解
 決しないのか?(p330-331)


あなたの存在

 あなたあなた自身について「私は在る」と言う。
 つまり、あなたの存在は単なる存在ではない。
 それはあなたが意識している存在である。
 実に、それは意識と同一の存在なのである。(p331)


世界実在

 (世界はそれ自身を意識していないかもしれないが、それでも存在している、
  というなら)
 
 意識とはつねに真の自己意識である。
 もしあなたが何かを意識しているなら、それは本質的にあなた自身を意識し
 ているのである。
 自己のない意識の存在とは、言葉の矛盾である。
 それはまったく存在などではない。
 それは単に属性的な存在であり、真の存在、サットは属性ではなく本質その
 ものである。
 それはヴァストウ(実在)である。
 それゆえ、実在はサット−チット、つまり存在−意識として知られており、
 単に他方を除いたものなどではけっしてない。
 世界はそれ自身では存在せず、またそれ自身の存在を意識してもいない。
 どうしてそのような世界を実在と言えよう?(p331)


意識とは

 意識とはつねに真の自己意識である。
 もしあなたが何かを意識しているなら、それは本質的にあなた自身を意識し
 ているのである。
 自己のない意識の存在とは、言葉の矛盾である。
 それはまったく存在などではない。
 それは単に属性的な存在であり、真の存在、サットは属性ではなく本質その
 ものである。
 それはヴァストウ(実在)である。
 それゆえ、実在はサット−チット、つまり存在−意識として知られており、
 単に他方を除いたものなどではけっしてない。
 世界はそれ自身では存在せず、またそれ自身の存在を意識してもいない。
 どうしてそのような世界を実在と言えよう?(p331)


真の自己意識

 (世界はそれ自身を意識していないかもしれないが、それでも存在している、
  というなら)
 
 意識とはつねに真の自己意識である。
 もしあなたが何かを意識しているなら、それは本質的にあなた自身を意識し
 ているのである。
 自己のない意識の存在とは、言葉の矛盾である。
 それはまったく存在などではない。
 それは単に属性的な存在であり、真の存在、サットは属性ではなく本質その
 ものである。
 それはヴァストウ(実在)である。
 それゆえ、実在はサット−チット、つまり存在−意識として知られており、
 単に他方を除いたものなどではけっしてない。
 世界はそれ自身では存在せず、またそれ自身の存在を意識してもいない。
 どうしてそのような世界を実在と言えよう?(p331)


自己意識

 (世界はそれ自身を意識していないかもしれないが、それでも存在している、
  というなら)
 
 意識とはつねに真の自己意識である。
 もしあなたが何かを意識しているなら、それは本質的にあなた自身を意識し
 ているのである。
 自己のない意識の存在とは、言葉の矛盾である。
 それはまったく存在などではない。
 それは単に属性的な存在であり、真の存在、サットは属性ではなく本質その
 ものである。
 それはヴァストウ(実在)である。
 それゆえ、実在はサット−チット、つまり存在−意識として知られており、
 単に他方を除いたものなどではけっしてない。
 世界はそれ自身では存在せず、またそれ自身の存在を意識してもいない。
 どうしてそのような世界を実在と言えよう?(p331)


ヴァストウ(実在)

 (世界はそれ自身を意識していないかもしれないが、それでも存在している、
  というなら)
 
 意識とはつねに真の自己意識である。
 もしあなたが何かを意識しているなら、それは本質的にあなた自身を意識し
 ているのである。
 自己のない意識の存在とは、言葉の矛盾である。
 それはまったく存在などではない。
 それは単に属性的な存在であり、真の存在、サットは属性ではなく本質その
 ものである。
 それはヴァストウ(実在)である。
 それゆえ、実在はサット−チット、つまり存在−意識として知られており、
 単に他方を除いたものなどではけっしてない。
 世界はそれ自身では存在せず、またそれ自身の存在を意識してもいない。
 どうしてそのような世界を実在と言えよう?(p331)


世界の本性

 世界の本性とは何だろうか?
 それは尽きることのない変化であり、絶え間なく、果てしない流転である。
 依存し、非−自己意識であり、永遠に変化しつづける世界は、実在ではあり
 えない。(p331)


目覚めの状態A

 (なぜ目覚めの状態はこんなにも実在のように見えるのか、というなら)
 
 われわれは映画のスクリーン上にたくさんのものを見る。
 だが、それは本物ではない。
 スクリーンを除いては、何ひとつそこに本物はない。
 それと同じように、目覚めの状態のなかにもアディスターナ(根底に在るも
 の)以外には何も存在しない。
 世界の知識とは、世界を知る者の知識である(ジャーグラト−プラマーはジ
 ャーグラト−プラマタのプラマーである)。
 どちらも眠りのなかでは消え去ってしまう。(p332)


世界の知識とは

 われわれは映画のスクリーン上にたくさんのものを見る。
 だが、それは本物ではない。
 スクリーンを除いては、何ひとつそこに本物はない。
 それと同じように、目覚めの状態のなかにもアディスターナ(根底に在るも
 の)以外には何も存在しない。
 世界の知識とは世界を知る者の知識である(ジャーグラト−プラマーはジ
 ャーグラト−プラマタのプラマーである)。
 どちらも眠りのなかでは消え去ってしまう。(p332)


世界のなかに永続性や一貫性

 (なぜ私たちは世界のなかに永続性や一貫性を見るのか、というなら)
 
 それは誤った概念のためである。
 誰かが、同じ川で二度沐浴をしたと言ったなら、それは誤りだ。
 なぜなら、彼が二度目に沐浴したとき、川はすでに一度目に沐浴したときと
 同じではないからだ。
 炎の輝きを見るとき、人は同じ炎を見ていると言う。
 だが、炎は一瞬一瞬変化しつづけている。
 目覚めの状態もこのようなものである。
 一定した現れは知覚の判断の誤りなのである。(p332)


一定した現れ

 (なぜ私たちは世界のなかに永続性や一貫性を見るのか、というなら)
 
 それは誤った概念のためである。
 誰かが、同じ川で二度沐浴をしたと言ったなら、それは誤りだ。
 なぜなら、彼が二度目に沐浴したとき、川はすでに一度目に沐浴したときと
 同じではないからだ。
 炎の輝きを見るとき、人は同じ炎を見ていると言う。
 だが、炎は一瞬一瞬変化しつづけている。
 目覚めの状態もこのようなものである。
 一定した現れは知覚の判断の誤りなのである。(p332)


誤りはどこに?

 (誤りはどこにあるのか、というなら)
 
 プラマタ(知る者)にある。
 
 (知る者はどうやって現れたのか?)
 
 った知覚のためである。
 実際は、知る者と彼のった知覚は同時に現れる。
 そして真我の知識が得られたとき、どちらも同時に消え去るのである。(p332-333)


プラマタ(知る者)

 (誤りはどこにあるのか、というなら)
 
 プラマタ(知る者)にある。
 
 (知る者はどうやって現れたのか?)
 
 誤った知覚のためである。
 実際は、知る者と彼の誤った知覚は同時に現れる。
 そして真我の知識が得られたとき、どちらも同時に消え去るのである。(p332-333)


知る者(プラマタ)

 (知る者はどうやって現れたのか、というなら)
 
 誤った知覚のためである。
 実際は、知る者と彼の誤った知覚は同時に現れる。
 そして真我の知識が得られたとき、どちらも同時に消え去るのである。(p332-333)


誤った知覚

 (知る者はどうやって現れたのか、というなら)
 
 誤った知覚のためである。
 実際は、知る者と彼の誤った知覚は同時に現れる。
 そして真我の知識が得られたとき、どちらも同時に消え去るのである。(p332-333)


質問をしているのは誰

 その質問をしているのは誰だろうか?
 
 (私です)
 
 その「私」を見いだしなさい。
 そうすればすべての疑いは消え去るだろう。
 夢のなかに偽りの知識、知る者、そして知られるものが立ち現れるように、
 目覚めの状態のなかでも同じ過程が作用する。
 どちらの状態のなかでも、「私」を知ることであなたはすべてを知り、他に
 知られるべきものは何も残らない。
 深い眠りのなかでは、知る者、知識、知られるものは不在である。
 これと同じように、あなたが真の「私」を体験した瞬間、知る者、知識、知
 られるものは存在しなくなるだろう。
 目覚めの状態のなかで起こっていることは何であれ、知る者だけに起こる。
 そしてその知る者自身が非実在であるため、実際は、いままで何も起こって
 はいなかったし、いまも何も起こってはいない。
 そしてこれからも、何も起こることはないのである。(p333)


「私」を知ること

 (質問をしている)その「私」を見いだしなさい。
 そうすればすべての疑いは消え去るだろう。
 夢のなかに偽りの知識、知る者、そして知られるものが立ち現れるように、
 目覚めの状態のなかでも同じ過程が作用する。
 どちらの状態のなかでも、「私」を知ることであなたはすべてを知り、他に
 知られるべきものは何も残らない。
 深い眠りのなかでは、知る者、知識、知られるものは不在である。
 これと同じように、あなたが真の「私」を体験した瞬間、知る者、知識、知
 られるものは存在しなくなるだろう。
 目覚めの状態のなかで起こっていることは何であれ、知る者だけに起こる。
 そしてその知る者自身が非実在であるため、実際は、いままで何も起こって
 はいなかったし、いまも何も起こってはいない。
 そしてこれからも、何も起こることはないのである。(p333)


深い眠りのなか@

 深い眠りのなかでは、知る者、知識、知られるものは不在である。
 これと同じように、あなたが真の「私」を体験した瞬間、知る者、知識、知
 られるものは存在しなくなるだろう。
 目覚めの状態のなかで起こっていることは何であれ、知る者だけに起こる。
 そしてその知る者自身が非実在であるため、実際は、いままで何も起こって
 はいなかったし、いまも何も起こってはいない。
 そしてこれからも、何も起こることはないのである。(p333)


知る者だけに起こる

 目覚めの状態のなかで起こっていることは何であれ、知る者だけに起こる。
 そしてその知る者自身が非実在であるため、実際は、いままで何も起こって
 はいなかったし、いまも何も起こってはいない。
 そしてこれからも、何も起こることはないのである。(p333)


何も起こってはいない

 目覚めの状態のなかで起こっていることは何であれ、知る者だけに起こる。
 そしてその知る者自身が非実在であるため、実際は、いままで何も起こって
 はいなかったし、いまも何も起こってはいない。
 そしてこれからも、何も起こることはないのである。(p333)


無知か意識か

 (「私」という感覚と世界の知識を与えている光は、無知意識か、という
  なら)
     
 「私」が他と異なっていると信じさせるのは、チットが反映した光である。
 このチットが反映した光が「私」に事物を創造させるのである。
 だがこの反映のためには、そこに反映されるべき表面がなければならない。
 
 (その表面とは何か?)
 
 真我を実現したとき、あなたはその反映と反映される表面が、実は存在して
 いないことを知るだろう。
 だが、それらはひとつであり、どちらも同じチットなのである。
 世界は存在する。
 世界はその存在のために場所と、それを知覚可能にするための光を必要とす
 る。
 そのどちらも同時に立ち現れる。
 それゆえ、世界の物理的存在とその知覚は、真我から反映された心の光に依
 存しているのである。
 映画の画像が反映された光によって、それも暗闇のなかでだけ見ることがで
 きるように、世界という画像も、無知の暗闇のなかで、真我から反映された
 光によってのみ見ることができるのである。
 世界は深い眠りのように、アヴィディヤー(無知)の完全な暗闇のなかでは
 見ることができないし、また真我実現やサマーディのように、完全な光のな
 かでも見ることができないのである。(p333-334)


反映された光

 (「私」という感覚と世界の知識を与えている光は、無知か意識か、という
  なら)
     
 「私」が他と異なっていると信じさせるのは、チットが反映た光である。
 このチットが反映た光が「私」に事物を創造させるのである。
 だがこの反映のためには、そこに反映されるべき表面がなければならない。
 
 (その表面とは何か?)
 
 真我を実現したとき、あなたはその反映反映される表面が、実は存在して
 いないことを知るだろう。
 だが、それらはひとつであり、どちらも同じチットなのである。
 世界は存在する。
 世界はその存在のために場所と、それを知覚可能にするための光を必要とす
 る。
 そのどちらも同時に立ち現れる。
 それゆえ、世界の物理的存在とその知覚は、真我から反映された心のに依
 存しているのである。
 映画の画像が反映された光によって、それも暗闇のなかでだけ見ることがで
 きるように、世界という画像も、無知の暗闇のなかで、真我から反映された
 光によってのみ見ることができるのである。
 世界は深い眠りのように、アヴィディヤー(無知)の完全な暗闇のなかでは
 見ることができないし、また真我実現やサマーディのように、完全なのな
 かでも見ることができないのである。(p333-334)


表面とは何か?

 (その反映されるべき表面とは何か、というなら)
 
 真我を実現したとき、あなたはその反映と反映される表面が、実は存在して
 いないことを知るだろう。
 だが、それらはひとつであり、どちらも同じチット(意識)なのである。
 世界は存在する。
 世界はその存在のために場所と、それを知覚可能にするための光を必要とす
 る。
 そのどちらも同時に立ち現れる。
 それゆえ、世界の物理的存在とその知覚は、真我から反映された心の光に依
 存しているのである。
 映画の画像が反映された光によって、それも暗闇のなかでだけ見ることがで
 きるように、世界という画像も、無知の暗闇のなかで、真我から反映された
 光によってのみ見ることができるのである。
 世界は深い眠りのように、アヴィディヤー(無知)の完全な暗闇のなかでは
 見ることができないし、また真我実現やサマーディのように、完全な光のな
 かでも見ることができないのである。(p333-334)


世界は存在する

 世界は存在する。
 世界はその存在のために場所と、それを知覚可能にするための光を必要とす
 る。
 そのどちらも同時に立ち現れる。
 それゆえ、世界の物理的存在とその知覚は、真我から反映された心の光に依
 存しているのである。
 映画の画像が反映された光によって、それも暗闇のなかでだけ見ることがで
 きるように、世界という画像も、無知の暗闇のなかで、真我から反映された
 光によってのみ見ることができるのである。
 世界は深い眠りのように、アヴィディヤー(無知)の完全な暗闇のなかでは
 見ることができないし、また真我実現やサマーディのように、完全な光のな
 かでも見ることができないのである。(p334)


場所

 世界は存在する。
 世界はその存在のために場所と、それを知覚可能にするためのを必要とす
 る。
 そのどちらも同時に立ち現れる。
 それゆえ、世界の物理的存在とその知覚は、真我から反映された心のに依
 存しているのである。
 映画の画像が反映されたによって、それも暗闇のなかでだけ見ることがで
 きるように、世界という画像も、無知の暗闇のなかで、真我から反映された
 によってのみ見ることができるのである。
 世界は深い眠りのように、アヴィディヤー(無知)の完全な暗闇のなかでは
 見ることができないし、また真我実現やサマーディのように、完全なのな
 かでも見ることができないのである。(p334)


心の光

 世界は存在する。
 世界はその存在のために場所と、それを知覚可能にするためのを必要とす
 る。
 そのどちらも同時に立ち現れる。
 それゆえ、世界の物理的存在とその知覚は、真我から反映された心の光に依
 存しているのである。
 映画の画像が反映されたによって、それも暗闇のなかでだけ見ることがで
 きるように、世界という画像も、無知の暗闇のなかで、真我から反映された
 によってのみ見ることができるのである。
 世界は深い眠りのように、アヴィディヤー(無知)の完全な暗闇のなかでは
 見ることができないし、また真我実現やサマーディのように、完全なのな
 かでも見ることができないのである。(p334)


完全な暗闇

 世界は存在する。
 世界はその存在のために場所と、それを知覚可能にするための光を必要とす
 る。
 そのどちらも同時に立ち現れる。
 それゆえ、世界の物理的存在とその知覚は、真我から反映された心の光に依
 存しているのである。
 映画の画像が反映された光によって、それも暗闇のなかでだけ見ることがで
 きるように、世界という画像も、無知の暗闇のなかで、真我から反映された
 光によってのみ見ることができるのである。
 世界は深い眠りのように、アヴィディヤー(無知)の完全な暗闇のなかでは
 見ることができないし、また真我実現やサマーディのように、完全な光のな
 かでも見ることができないのである。(p334)


完全な光

 世界は存在する。
 世界はその存在のために場所と、それを知覚可能にするためのを必要とす
 る。
 そのどちらも同時に立ち現れる。
 それゆえ、世界の物理的存在とその知覚は、真我から反映された心のに依
 存しているのである。
 映画の画像が反映されたによって、それも暗闇のなかでだけ見ることがで
 きるように、世界という画像も、無知の暗闇のなかで、真我から反映された
 によってのみ見ることができるのである。
 世界は深い眠りのように、アヴィディヤー(無知)の完全な暗闇のなかでは
 見ることができないし、また真我実現やサマーディのように、完全な光のな
 かでも見ることができないのである。(p334)


輪廻転生真理

 (輪廻転生は真実か、というなら)
 無知が存在するかぎり、輪廻転生は存在する。
 本当は、輪廻転生などまつたく存在しない。
 いまも、いままでも、そしてこれからも。
 これが真理である。(p336)


過去生を知る

 (ヨーギは過去生を知ることができるか、というなら)
 あなたは過去を知りたがっている現在の人生をっているのかね?
 現在を見いだしなさい。
 そうすれば他のことは明らかになる。
 現在のこの限られた知識にあってさえ、こんなにも苦しんでいるというのに、
 なぜより多くの知識の重荷を自分に負わせなくてはならないのか?
 もつと苦しむためかね。(p327)


生を授かる

 至高の真我から見れば、この蜃気楼のような世界のなかで生を授かるという
 幻想は、「私」と身体との同一化という利己的な無知以外の何ものでもない。
 真我を忘れはてた者たちは、生まれては死に、死んでは再び生まれることだ
 ろう。
 だが、至高の実在を実現して心が死にはてた者は、生死を超えた実在のなか
 だけにとどまる。
 真我を忘れて身体を真我と想いなし、果てしなく誕生を繰り理し、そしてつ
 いに真我を知って真我に成るということは、世界中を放浪した夢から覚める
 ようなものだ。(p336)


誕生と再誕生

 (死後に再誕生するにはどれほどの時間がかかるのか、というなら)
 あなたは生まれる前あなたが何だったのか知らない。
 それなのに、死んだあとあなたが何になるか知りたがっている。
 あなたは今のあなたが何なのか知っているかね?
 
 誕生と再誕生は身体に関わったものだ。
 あなたは真我と身体を同一視している。
 その同一化が誤りなのだ。
 あなたは身体が生まれ、そして死ぬと信じている。
 そしてその身体に関わる現象を真我と混同しているのである。
 何よりも、あなたの真の存在を知りなさい。
 そうすればこのような質問は起こらないだろう。
 
 誕生と再誕生について語られるのは、ただ、あなたがこのことについてよく
 調べ、誕生再誕生も本当は存在しないという真理を見いだすためである。
 それらは身体だけに関わり、真我には誕生再誕生もない。
 それゆえ、真我を知りなさい。
 そして疑いに惑わされてはならない。(p337)


来生

 (行為はその人の来生に影響を及ぼすのではないか、というなら)
 あなたは今生まれたのかね?
 なぜ来生について想いをめぐらすのか?
 生も死も存在しない。
 それが事実である。
 自分は生まれたと考える者に、死について考えさせればいい。(p337)


死後、個人には何が起こるか

 (死後、個人には何が起こるか、というなら)
 今現在にかかわりなさい。
 未来はそれ自身で面倒を見るだろう。
 未来を思い煩ってはならない。
 聖典のなかに見られる世界創造以前の状態や創造の過程についての説明はみ
 な、あなたを今、この瞬間に在らせるためにある。
 あなたが自分は生まれたと言うため、聖典はそのとおりだと言い、それから
 神があなたを創造したのだと付け加えるのである。(p338)


創造以前の状態

 聖典のなかに見られる世界創造以前の状態創造の過程についての説明はみ
 な、あなたを今、この瞬間に在らせるためにある。
 あなたが自分は生まれたと言うため、聖典はそのとおりだと言い、それから
 神があなたを創造したのだと付け加えるのである。(p338)


深い眠りのなかA

 あなたは深い眠りのなかで神や何か他のものを見るだろうか?
 もし神が実在なら、なぜあなたの深い眠りのなかに輝きとともに現れないの
 だろうか?
 あなたはつねに存在している。
 今、目覚めているあなたは、眠りのなかにいた人と同じ人である。
 それなのに、どうして眠りと目覚めの状態の体験や感覚は異なるのだろうか?
 
 っている間、あなたは誕生について尋ねただろうか?
 眠りのなかで「私は死後どこへ行くのでしょうか」と尋ねただろうか?
 なぜ今、目覚めの状態のなかでこれらの質問をするのだろうか?
 生まれた者にその誕生とその救済策について、その原因と究極の結果につい
 て考えさせるがいい。(p338)


神が実在なら

 あなたは深い眠りのなかでや何か他のものを見るだろうか?
 もし神が実在なら、なぜあなたの深い眠りのなかに輝きとともに現れないの
 だろうか?
 あなたはつねに存在している。
 今、目覚めているあなたは、眠りのなかにいた人と同じ人である。
 それなのに、どうして眠りと目覚めの状態の体験や感覚は異なるのだろうか?
 
 眠っている間、あなたは誕生について尋ねただろうか?
 眠りのなかで「私は死後どこへ行くのでしょうか」と尋ねただろうか?
 なぜ今、目覚めの状態のなかでこれらの質問をするのだろうか?
 生まれた者にその誕生とその救済策について、その原因と究極の結果につい
 て考えさせるがいい。(p338)


死後どこへ行くか

 眠っている間、あなたは誕生について尋ねただろうか?
 眠りのなかで「私は死後どこへ行くのでしょうか」と尋ねただろうか?
 なぜ今、目覚めの状態のなかでこれらの質問をするのだろうか?
 生まれた者にその誕生とその救済策について、その原因と究極の結果につい
 て考えさせるがいい。(p338)


死後、個人は何になるのか

 (死後、ジーヴア(個人)は何になるのか、というなら)
 その質問は、今生きているジーヴァにふさわしいものではない。
 死んだジーヴァがもし望むなら、私に尋ねてもいいだろう。
 今は、この身体をまとった個人に現在の問題を解決させて、彼が誰なのかを
 見いださせよう。
 そうすれば、このような疑いはなくなるだろう。(p338)


転生する自我

 (仏教の見解には、個人の魂という転生する実体は存在しないが、これは正
  しいのか、というなら)
 真我は永遠に存在し、影響を受けない。
 転生する自我はより低い次元、つまり想念の次元に属している。
 それは真我実現によって超越されるのである。
 
 輪廻転生はヒンドゥー教の偽りの分派による概念である。
 それゆえ、それは仏教徒に否定された。
 現状における無知は、意識(チット)と生命のない(ジャダ)身体との同一
 視によるものである。(p339)


偽りの分派

 輪廻転生はヒンドゥー教の偽りの分派による概念である。
 それゆえ、それは仏教徒に否定された。
 現状における無知は、意識(チット)と生命のない(ジャダ)身体との同一
 視によるものである。(p339)


天国(スワルガ)

 (私たちは行為の結果として天国へ行くのではないか、というなら)
 天国は現在の存在と同じだけ真実である。
 だが、もしわれわれが誰なのかを探究し、真我を実現したなら、天国につい
 て考える必要などあるだろうか?(p339)


輪廻転生自由

 (私は輪廻転生からまぬがれるように試みるべきではないか、というなら)
 そのとおりだ。
 いったい誰が生まれ、誰が今、存在の問題を抱えているのか見いだしなさい。
 眠っているとき、あなたは輪廻転生や現在の生について考えるだろうか?
 それゆえ、どこから現在の問題が生じたのかを見いだしなさい。
 そこにあなたは解決を見つけるだろう。
 あなたは誕生も、現在の問題も、不幸も存在しないことを発見するだろう。
 真我がすべてであり、すべてが至福である。
 今でさえ、われわれは輪廻転生から自由なのだ。
 なぜそれについて嘆き悲しむのか?(p339)


生まれ変わり

 (生まれ変わりはあるのか、というなら)
 誕生とは何か、あなたは知っているだろうか?
 
 過去!……現在!……未来!……
 
 過去もなければ未来もない。
 ただ現在だけがある。
 あなたが体験したとき、昨日は現在だった。
 あなたが体験するとき、明日もまた現在になるだろう。
 それゆえ、体験は現在においてのみ起こるのである。
 そして体験の彼方には何も存在しない。(p340)


体験現在

 過去もなければ未来もない。
 ただ現在だけがある。
 あなたが体験したとき、昨日は現在だった。
 あなたが体験するとき、明日もまた現在になるだろう。
 それゆえ、体験現在においてのみ起こるのである。
 そして体験の彼方には何も存在しない。(p340)


現在でさえ単なる想像

 (では、過去も未来も想像にすぎないのか、というなら)
 そうだ。
 現在でさえ単なる想像にすぎない。
 なぜなら、時間の感覚とは純粋に精神的なものだからである。
 空間も同様に精神的なものである。
 それゆえ、時間と空間のなかに起こる転生は想像以外の何ものでもない。(p340)


時間の感覚

 (では、過去も未来も想像にすぎないのか、というなら)
 そうだ。
 現在でさえ単なる想像にすぎない。
 なぜなら、時間の感覚とは純粋に精神的なものだからである。
 空間も同様に精神的なものである。
 それゆえ、時間と空間のなかに起こる転生は想像以外の何ものでもない。(p340)


再誕生への渇望

 (生命と再誕生への渇望の原因とは何か、というなら)
 真の再誕生とは自我として死に、霊性として再生することである。
 これがイエスの礫(はりつけ)と復活の真意である。
 霊性、真我、源のなかに溶け去り、身体としての感覚が消え去るまで、新し
 い身体はつねに手に入るだろう。
 放り投げられた石は再び源に戻り、落ち着くまでつねに動きのなかにある。
 頭痛は頭痛が起こる以前の状態に戻るまで苦しみを与えつづける。
 生命と再誕生への渇望は、絶対的な存在、サットである生命の本質そのもの
 のなかに本来備わっている。
 本質的に不滅であるにもかかわらず、はかない道具でしかない身体との偽り
 の同一化によって、意識はそのはかなさと同化してしまう。
 それが誕生の連鎖という結果をもたらしたのである。
 だが、いかに果てしなく身体が転生を繰り返そうとも、いつかは終焉がおと
 ずれ、唯一永遠の真我に明け渡すときが来るのだ。(p340-341)


真の再誕生

 真の再誕生とは自我として死に、霊性として再生することである。
 これがイエスの礫(はりつけ)と復活の真意である。
 霊性、真我、源のなかに溶け去り、身体としての感覚が消え去るまで、新し
 い身体はつねに手に入るだろう。
 放り投げられた石は再び源に戻り、落ち着くまでつねに動きのなかにある。
 頭痛は頭痛が起こる以前の状態に戻るまで苦しみを与えつづける。
 生命と再誕生への渇望は、絶対的な存在、サットである生命の本質そのもの
 のなかに本来備わっている。
 本質的に不滅であるにもかかわらず、はかない道具でしかない身体との偽り
 の同一化によって、意識はそのはかなさと同化してしまう。
 それが誕生の連鎖という結果をもたらしたのである。
 だが、いかに果てしなく身体が転生を繰り返そうとも、いつかは終焉がおと
 ずれ、唯一永遠の真我に明け渡すときが来るのだ。(p340-341)


イエスの礫(はりつけ)

 真の再誕生とは自我として死に、霊性として再生することである。
 これがイエスの礫(はりつけ)と復活の真意である。
 霊性、真我、源のなかに溶け去り、身体としての感覚が消え去るまで、新し
 い身体はつねに手に入るだろう。
 放り投げられた石は再び源に戻り、落ち着くまでつねに動きのなかにある。
 頭痛は頭痛が起こる以前の状態に戻るまで苦しみを与えつづける。
 生命と再誕生への渇望は、絶対的な存在、サットである生命の本質そのもの
 のなかに本来備わっている。
 本質的に不滅であるにもかかわらず、はかない道具でしかない身体との偽り
 の同一化によって、意識はそのはかなさと同化してしまう。
 それが誕生の連鎖という結果をもたらしたのである。
 だが、いかに果てしなく身体が転生を繰り返そうとも、いつかは終焉がおと
 ずれ、唯一永遠の真我に明け渡すときが来るのだ。(p340-341)


(はりつけ)と復活の真意

 真の再誕生とは自我として死に、霊性として再生することである。
 これがイエスの(はりつけ)と復活の真意である。
 霊性、真我、源のなかに溶け去り、身体としての感覚が消え去るまで、新し
 い身体はつねに手に入るだろう。
 放り投げられた石は再び源に戻り、落ち着くまでつねに動きのなかにある。
 頭痛は頭痛が起こる以前の状態に戻るまで苦しみを与えつづける。
 生命と再誕生への渇望は、絶対的な存在、サットである生命の本質そのもの
 のなかに本来備わっている。
 本質的に不滅であるにもかかわらず、はかない道具でしかない身体との偽り
 の同一化によって、意識はそのはかなさと同化してしまう。
 それが誕生の連鎖という結果をもたらしたのである。
 だが、いかに果てしなく身体が転生を繰り返そうとも、いつかは終焉がおと
 ずれ、唯一永遠の真我に明け渡すときが来るのだ。(p340-341)


偽りの同一化

 偽りの同一化を捨てなさい。
 そして真我なしに身体が存在することはできないが、真我は身体なしでも存
 在するということを覚えておきなさい。
 事実、真我はつねに身体なしで存在しているのである。(p341)


真我は身体なしで

 偽りの同一化を捨てなさい。
 そして真我なしに身体が存在することはできないが、真我は身体なしでも存
 在するということを覚えておきなさい。
 事実、真我はつねに身体なしで存在しているのである。(p341)


来生で動物に生まれ変わる

 (来生で動物に生まれ変わるようなことはあるか、というなら)
 生まれ変わったその人にその質問をさせればいい。
 なによりもまず、誰が生まれたのかを見いだしなさい。
 そして本当に誕生と死が存在するのかを見いだしなさい。
 そうすれば、あなたは誕生が自我に属する心の幻想だと知るだろう。(p341-342)


人間が動物に生まれ変わる

 (人間が動物に生まれ変わるということがありうるか、というなら)
 そうだ。
 それは可能である。
 ジャダ・バーラタによって説明されたように――聖典のなかの逸話に、偉大
 な聖者が鹿として再誕生したことが伝えられている。(p342)


動物の身体のなかで

 (個人が動物の身体のなかで霊的進展をとげることは可能か、というなら)
 きわめてまれなことではあるが、まつたく不可能というわけではない。
 人間としての誕生が最高位にあり、人間にならなければ実現が不可能だとい
 うのは真実ではない。
 動物でさえ真我を実現することはできるのだ。(p342)


死と再誕生の間

 (神智学は死と再誕生の間には五十年から一万年のほどの間隔がある
  と述べているが、なぜそうなのか、というなら)
 ひとつの意識状態と別の意識状態の間に、測定の基準となるものはない。
 そのような測定法は仮定的なものだ。
 ある個人はより多くの時間をとり、ある個人はより少ないということは事実
 である。
 だが、はっきり理解されなければならないのは、生まれ変わるのは魂ではな
 く、あたかも転生するかのように見える個人の思考にすぎない。
 心がいかなる次元で活動しようとも、それはそれ自身のために身体を作りだ
 す。
 物理的世界には物理的身体、夢見の世界には夢の身体を。
 夢見の身体は夢の雨に濡れ、夢の病で病気になる。
 ちょうど夢のない深い眠りのなかでは世界がなく、それゆえ身体もないよう
 に、物理的身体の死後、心はある期間活動を停止する。
 だが、すぐそれは新しい世界と新しい身体(アストラル)のなかで活動的に
 なる。
 そのあとに、それは「再誕生」と呼ばれる別の身体を得るのである。
 だが、ジニャーニ(真我を実現した人)の心はすでに存在をやめ、二度と再
 び誕生と死の原因を起こすことはない。
 彼にとって、幻想の連鎖は永遠に断ち切られたのである。
 
 こうしてみれば、誕生も死も本当は存在しないということは、もはや明らか
 だろう。
 再生という過程のなかで幻想を生みだし、それを維持してきたのは心なのだ。
 そして、それは真我実現によって破壊されるのである。(p342-343)


生まれ変わるのは

 はっきり理解されなければならないのは、生まれ変わるのは魂ではなく、あ
 たかも転生するかのように見える個人の思考にすぎない。
 心がいかなる次元で活動しようとも、それはそれ自身のために身体を作りだ
 す。
 物理的世界には物理的身体、夢見の世界には夢の身体を。
 夢見の身体は夢の雨に濡れ、夢の病で病気になる。
 ちょうど夢のない深い眠りのなかでは世界がなく、それゆえ身体もないよう
 に、物理的身体の死後、心はある期間活動を停止する。
 だが、すぐそれは新しい世界と新しい身体(アストラル)のなかで活動的に
 なる。
 そのあとに、それは「再誕生」と呼ばれる別の身体を得るのである。
 だが、ジニャーニ(真我を実現した人)の心はすでに存在をやめ、二度と再
 び誕生と死の原因を起こすことはない。
 彼にとって、幻想の連鎖は永遠に断ち切られたのである。
 
 こうしてみれば、誕生も死も本当は存在しないということは、もはや明らか
 だろう。
 再生という過程のなかで幻想を生みだし、それを維持してきたのは心なのだ。
 そして、それは真我実現によって破壊されるのである。(p342-343)


身体を作りだす

 はっきり理解されなければならないのは、生まれ変わるのは魂ではなく、あ
 たかも転生するかのように見える個人の思考にすぎない。
 心がいかなる次元で活動しようとも、それはそれ自身のために身体を作りだ
 す。
 物理的世界には物理的身体、夢見の世界には夢の身体を。
 夢見の身体は夢の雨に濡れ、夢の病で病気になる。
 ちょうど夢のない深い眠りのなかでは世界がなく、それゆえ身体もないよう
 に、物理的身体の死後、心はある期間活動を停止する。
 だが、すぐそれは新しい世界と新しい身体(アストラル)のなかで活動的に
 なる。
 そのあとに、それは「再誕生」と呼ばれる別の身体を得るのである。
 だが、ジニャーニ(真我を実現した人)の心はすでに存在をやめ、二度と再
 び誕生と死の原因を起こすことはない。
 彼にとって、幻想の連鎖は永遠に断ち切られたのである。
 
 こうしてみれば、誕生も死も本当は存在しないということは、もはや明らか
 だろう。
 再生という過程のなかで幻想を生みだし、それを維持してきたのは心なのだ。
 そして、それは真我実現によって破壊されるのである。(p342-343)


「再誕生」

 はっきり理解されなければならないのは、生まれ変わるのは魂ではなく、あ
 たかも転生するかのように見える個人の思考にすぎない。
 心がいかなる次元で活動しようとも、それはそれ自身のために身体を作りだ
 す。
 物理的世界には物理的身体、夢見の世界には夢の身体を。
 夢見の身体は夢の雨に濡れ、夢の病で病気になる。
 ちょうど夢のない深い眠りのなかでは世界がなく、それゆえ身体もないよう
 に、物理的身体の死後、心はある期間活動を停止する。
 だが、すぐそれは新しい世界と新しい身体(アストラル)のなかで活動的に
 なる。
 そのあとに、それは「再誕生」と呼ばれる別の身体を得るのである。
 だが、ジニャーニ(真我を実現した人)の心はすでに存在をやめ、二度と再
 び誕生と死の原因を起こすことはない。
 彼にとって、幻想の連鎖は永遠に断ち切られたのである。
 
 こうしてみれば、誕生も死も本当は存在しないということは、もはや明らか
 だろう。
 再生という過程のなかで幻想を生みだし、それを維持してきたのは心なのだ。
 そして、それは真我実現によって破壊されるのである。(p342-343)


幻想の連鎖

 心がいかなる次元で活動しようとも、それはそれ自身のために身体を作りだ
 す。
 物理的世界には物理的身体、夢見の世界には夢の身体を。
 夢見の身体は夢の雨に濡れ、夢の病で病気になる。
 ちょうど夢のない深い眠りのなかでは世界がなく、それゆえ身体もないよう
 に、物理的身体の死後、心はある期間活動を停止する。
 だが、すぐそれは新しい世界と新しい身体(アストラル)のなかで活動的に
 なる。
 そのあとに、それは「再誕生」と呼ばれる別の身体を得るのである。
 だが、ジニャーニ(真我を実現した人)の心はすでに存在をやめ、二度と再
 び誕生と死の原因を起こすことはない。
 彼にとって、幻想の連鎖は永遠に断ち切られたのである。
 
 こうしてみれば、誕生も死も本当は存在しないということは、もはや明らか
 だろう。
 再生という過程のなかで幻想を生みだし、それを維持してきたのは心なのだ。
 そして、それは真我実現によって破壊されるのである。(p343)


個我性

 (川が大海に流れこんでその個体性を失うように、死も人の個我を溶かし去
  り、再生はできないのではないか、というなら)
  
 けれども海水は蒸発し、雨となって丘の上に降り注ぎ、再び川となって海に
 流れ下っていく。
 同じように、眠っている間は個我もその分離性を失っているが、サンスカー
 ラあるいは過去の潜在的傾向にしたがって、目覚めとともに個我性を取り戻
 す。
 それは死においても同じである。
 サンスカーラ(心の潜在的傾向)をもった人の個我性は失われることはない。(p343)


ジーヴア(個人)

 (どうして死によって人の個我性が失われないのか、というなら)
 
 枝を切られた本がどのように再生するか見てみるがいい。
 根がそこなわれずに残っているかぎり、木は生長しつづけるだろう。
 同じように、死の過程におけるサンスカーラ(心の潜在的傾向)はハートの
 なかに沈んでいるだけで、死に絶えたわけではない。
 そのため、時が来れば再誕生してくる。
 ジーヴア(個人)はこのように再生するのである。(p343-344)


個人(ジーヴア)

 (どうして死によって人の個我性が失われないのか、というなら)
 
 枝を切られた本がどのように再生するか見てみるがいい。
 根がそこなわれずに残っているかぎり、木は生長しつづけるだろう。
 同じように、死の過程におけるサンスカーラ(心の潜在的傾向)はハートの
 なかに沈んでいるだけで、死に絶えたわけではない。
 そのため、時が来れば再誕生してくる。
 ジーヴア(個人)はこのように再生するのである。(p343-344)


バンヤンの木

 (ハートのなかに沈んでいる非常に小さなサンスカーラ(心の潜在的傾向)
  から、いつたいどのように無数のジーヴァ(個人)と、それらが生みだし
  た広大な宇宙が芽生えてくるのか、というなら)
 
 大きなバンヤンの木がひと粒の小さな種子から芽生えるように、ジーヴアと
 名前と形をともなった全宇宙は微小なサンスカーラから芽生えてくるのであ
 る。(p344)


全宇宙は微小なサンスカーラから

 (ハートのなかに沈んでいる非常に小さなサンスカーラ(心の潜在的傾向)
  から、いつたいどのように無数のジーヴァと、それらが生みだした広大
  な宇宙が芽生えてくるのか、というなら)
 
 大きなバンヤンの木がひと粒の小さな種子から芽生えるように、ジーヴアと
 名前と形をともなった全宇宙は微小なサンスカーラから芽生えてくるのであ
 る。(p344)


死を迎えようとするとき

 (ジーヴア(個人)はどのようにしてひとつの身体から別の身体へと移って
  いくのか、というなら)
 
 人が死を迎えようとするとき、呼吸が困難になる。
 それはにゆく身体に対して無意識になっているのである。
 心は別の身体をつかみとろうとし、新しい身体への執着が完全なものとなる
 まで、二つの身体の間を行ったり来たりする。
 ときおり呼吸が激しくなるのは、心がにつつある身体に戻ろうとしている
 からだ。
 この過渡的な心の状態は、何か夢のような状態である。(p344)


新しい身体へ

 (ジーヴア(個人)はどのようにしてひとつの身体から別の身体へと移って
  いくのか、というなら)
 
 人が死を迎えようとするとき、呼吸が困難になる。
 それは死にゆく身体に対して無意識になっているのである。
 心は別の身体をつかみとろうとし、新しい身体への執着が完全なものとなる
 まで、二つの身体の間を行ったり来たりする。
 ときおり呼吸が激しくなるのは、心が死につつある身体に戻ろうとしている
 からだ。
 この過渡的な心の状態は、何か夢のような状態である。(p344)


死と再生の間隔

 (人の死と再生の間隔はどれほど長い期間なのか、というなら)
 
 それは長いときもあり、短いときもある。
 だが、ジニャーニはいかなる変化も通らない。
 彼は普遍の存在のなかに溶け去ったのである。
 
 ある人びとはこう言っている。
 「死後に光の道のなかを通る人は、再び生まれることはない。
  死後に暗闇の道を通る人は、微細な身体のなかでカルマの結実を楽しんだ
  のち、つまり生前での行ないの報いを受け、それを味わったあとに再誕生
  する」
 
 またある人びとはこう言う。
 「生前の功績と罪過が等しい人は、直接ここに再誕生する。
  功績が罪過を上回る場合、微細な身体は天国へ行き、それから再誕生する。
  罪過が功績を上回る場合、彼らは地獄へ行き、そのあとでここに再誕生し
  てくる」
 
 ヨーガブラシュタ(ヨーガの道を踏みはずした人)もまた、同じような過程
 を通ると言われている。
 これらのことはすべて聖典に記述されている。
 だが真実は、誕生も死も存在しないのである。
 人はただ真にあるがままに在る。
 ただこれのみが真理である。(p344-345)


誕生も死も存在しない

 (人のと再生の間隔はどれほど長い期間なのか、というなら)
 
 それは長いときもあり、短いときもある。
 だが、ジニャーニはいかなる変化も通らない。
 彼は普遍の存在のなかに溶け去ったのである。
 
 ある人びとはこう言っている。
 「後に光の道のなかを通る人は、再び生まれることはない。
  後に暗闇の道を通る人は、微細な身体のなかでカルマの結実を楽しんだ
  のち、つまり生前での行ないの報いを受け、それを味わったあとに再誕生
  する」
 
 またある人びとはこう言う。
 「生前の功績と罪過が等しい人は、直接ここに再誕生する。
  功績が罪過を上回る場合、微細な身体は天国へ行き、それから再誕生する。
  罪過が功績を上回る場合、彼らは地獄へ行き、そのあとでここに再誕生し
  てくる」
 
 ヨーガブラシュタ(ヨーガの道を踏みはずした人)もまた、同じような過程
 を通ると言われている。
 これらのことはすべて聖典に記述されている。
 だが真実は、誕生も死も存在しないのである。
 人はただ真にあるがままに在る。
 ただこれのみが真理である。(p344-345)


誕生や再誕生は

 (誕生や再誕生は究極的に偽りなのか、というなら)
 
 もし誕生があるとするなら、一度の再誕生だけではなく、転生の連鎖の全過
 程が存在することになる。
 なぜ、どのようにしてあなたはこの誕生を得ることになったのだろうか?
 いままで同じ理由で、同じょうに、あなたは次から次へと再誕生してきたに
 違いない。
 だが、もしあなたが「誕生したのは誰か?」と問いただせば、そして誕生と
 死があなたに起こったのか、それともまったく異なる誰かに起こったのかと
 尋ねれば、そのときあなたは真理を悟るだろう。
 そしてその真理がすべてのカルマを焼き尽くし、すべての誕生からあなたを
 解放するだろう。
 聖典は、すべてのサンチタ・カルマ(前世から蓄積されてきたカルマ)が尽
 きるまで無数の再生を通して続いてきた無知が、どのようにして一瞬のジニ
 ャーナの閃光に焼き尽くされるのかを明確に説明している。
 途方もなく膨大な研究を重ねてきた無数の科学とすべての世界創造の原因は
 自我にある。
 そしてもし自我が探究によつて溶け去れば、これらはすべて崩壊し、ただ真
 我のみが残るのである。(p345-346)


「誕生したのは誰か?」

 (誕生や再誕生は究極的に偽りなのか、というなら)
 
 もし誕生があるとするなら、一度の再誕生だけではなく、転生の連鎖の全過
 程が存在することになる。
 なぜ、どのようにしてあなたはこの誕生を得ることになったのだろうか?
 いままで同じ理由で、同じょうに、あなたは次から次へと再誕生してきたに
 違いない。
 だが、もしあなたが「誕生したのは誰か?」と問いただせば、そして誕生と
 死があなたに起こったのか、それともまったく異なる誰かに起こったのかと
 尋ねれば、そのときあなたは真理を悟るだろう。
 そしてその真理がすべてのカルマを焼き尽くし、すべての誕生からあなたを
 解放するだろう。
 聖典は、すべてのサンチタ・カルマ(前世から蓄積されてきたカルマ)が尽
 きるまで無数の再生を通して続いてきた無知が、どのようにして一瞬のジニ
 ャーナの閃光に焼き尽くされるのかを明確に説明している。
 途方もなく膨大な研究を重ねてきた無数の科学とすべての世界創造の原因は
 自我にある。
 そしてもし自我が探究によつて溶け去れば、これらはすべて崩壊し、ただ真
 我のみが残るのである。(p345-346)


世界創造の原因

 (誕生や再誕生は究極的に偽りなのか、というなら)
 
 もし誕生があるとするなら、一度の再誕生だけではなく、転生の連鎖の全過
 程が存在することになる。
 なぜ、どのようにしてあなたはこの誕生を得ることになったのだろうか?
 いままで同じ理由で、同じょうに、あなたは次から次へと再誕生してきたに
 違いない。
 だが、もしあなたが「誕生したのは誰か?」と問いただせば、そして誕生と
 死があなたに起こったのか、それともまったく異なる誰かに起こったのかと
 尋ねれば、そのときあなたは真理を悟るだろう。
 そしてその真理がすべてのカルマを焼き尽くし、すべての誕生からあなたを
 解放するだろう。
 聖典は、すべてのサンチタ・カルマ(前世から蓄積されてきたカルマ)が尽
 きるまで無数の再生を通して続いてきた無知が、どのようにして一瞬のジニ
 ャーナの閃光に焼き尽くされるのかを明確に説明している。
 途方もなく膨大な研究を重ねてきた無数の科学とすべての世界創造の原因は
 自我にある。
 そしてもし自我が探究によつて溶け去れば、これらはすべて崩壊し、ただ真
 我のみが残るのである。(p345-346)


身体の誕生や死

 (あなたは私が一度も生まれてこなかつたと言うのか、というなら)
 
 そのとおりだ。
 あなたは今、あなたが身体だと考えている。
 それゆえ、身体の誕生や死とあなた自身を混同している。
 だが、あなたは身体ではなく、あなたには誕生も存在しない。(p346)


輪廻転生の理論

 (それでは、あなたは輪廻転生の理論を支持しないのか、というなら)
 
 いいや。
 その反対に、私はあなたが再誕生するというあなたの混乱を取り除きたいの
 だ。
 あなたが再誕生すると信じているのはあなたである。
 その質問が誰にとって起こったのか見いだしなさい。
 質問したその人が見いだされるまでは、そのような質問が答えられることは
 けっしてないだろう。(p346)


混乱を取り除きたい

 (それでは、あなたは輪廻転生の理論を支持しないのか、というなら)
 
 いいや。
 その反対に、私はあなたが再誕生するというあなたの混乱を取り除きたいの
 だ。
 あなたが再誕生すると信じているのはあなたである。
 その質問が誰にとって起こったのか見いだしなさい。
 質問したその人が見いだされるまでは、そのような質問が答えられることは
 けっしてないだろう。(p346)


神や世界の本質

 (は顕現と非顕現として描写されている。前者としては、世界をその
  一部として包含していると言われている。もしもそうなら、世界の一部と
  しての私たちは、彼を目に見える姿で知っているはずだ、というなら)
 
 神や世界の本質について決める前に、あなた自身を知りなさい。(p349)


神を知ること

 (私自身を知ることが、神を知ることなのか、というなら)
 
 そうだ。
 神はあなたの内にいる。(p349)
***


神を知る上で障害

 (私自身あるいは神を知る上で障害となるのは何か、というなら)
 
 あなたのさ迷う心と、道を踏みはずすことである。(p349)


神は個人なのか

 (神は個人なのか、というなら)
 
 そうだ。
 彼はつねに第一番目の人であり、「私」であり、永遠にあなたの目の前に存
 在する人である。
 あなたが世俗的なことに優位を与えてきたため、神は背後に遠のいてしまっ
 た。
 もしあなたがのみを求め、それ以外のすべてをあきらめるなら、唯一の
 みが「私」、真我として残るだろう。(p349)
***


苦しみの原因A

 (世界の苦しみの原因は何だと思われますか? そして、どうすれば
     個人的あるいは集団的にそれを変えることができるのでしょうか?
 
 マハルシ
 真我を実現しなさい。
 それだけが必要とされるすべてである。(p364)


不幸の原因

 真我の至福はつねにあなたとともにある。
 もし真剣にそれを求めるならば、かならず見つけるだろう。
 あなたの不幸の原因は、外側の人生のなかにあるのではない。
 それは自我として、あなたのなかにある。
 あなたが自分で自分の上に束縛を押しつけておいて、それからそれを超えよ
 うと虚しくあがくのである。
 すべての不幸は自我のために起こる。
 自我とともにすべての困難がやってくる。
 あなたの本当の不幸の原因はあなたの内側にある。
 それを人生のできごとのせいにしたところで何の利益があるというのかね?
 外側のものごとからどんな幸福を得ようというのか?
 たとえそれを得たとしても、どれほど長くつづくというのだろうか?(p364)


虚しいあがき

 もしあなたが自我を否定し、それを無視することによって焼き尽くすならば、
 あなたは自由になるだろう。
 もし自我を受け入れるならば、それはあなたに制限を押しつけ、それを超え
 ようとする虚しいあがきのなかにあなたを投げ入れるだろう。
 本来の自己である真我として在ることが、永遠にあなたのものである至福を
 実現する唯一の方法である。(p365)


喜びや悲しみ

 (もし本当に束縛も解脱も存在しないのなら、喜びや悲しみという現実的な
  体験はなぜあるのか、というなら)
 
 喜びや悲しみは、人が真の本性を離れたときにだけ事実であるように見える。
 実際には、喜びや悲しみも存在しない。(p365)


創造は善でも悪でもない

 (世界が創造されたのは幸福のためか、不幸のためか、というなら)
 
 創造は善でも悪でもない。
 それはあるがままにある。
 ものごとを自分の角度から眺め、自分の利益に沿うように解釈し、そのうえ
 にあらゆる類の説明を押しつけるのは人間の心なのだ。
 ひとりの女性はただの女性である。
 だが、ひとつの心は彼女を「母」と呼び、別の心は「妹」と呼ぶ。
 さらに別の心は「叔母」と呼ぶといったように。
 男は女を愛すが、蛇は憎む。
 そして道端の草や石には無関心だ。
 こういった価値判断が世界中のすべての不幸の原因なのである。(p365-366)


あるがままに

 (世界が創造されたのは幸福のためか、不幸のためか、というなら)
 
 創造は善でも悪でもない。
 それはあるがままにある。
 ものごとを自分の角度から眺め、自分の利益に沿うように解釈し、そのうえ
 にあらゆる類の説明を押しつけるのは人間の心なのだ。
 ひとりの女性はただの女性である。
 だが、ひとつの心は彼女を「母」と呼び、別の心は「妹」と呼ぶ。
 さらに別の心は「叔母」と呼ぶといったように。
 男は女を愛すが、蛇は憎む。
 そして道端の草や石には無関心だ。
 こういった価値判断が世界中のすべての不幸の原因なのである。(p365-366)


価値判断

 (世界が創造されたのは幸福のためか、不幸のためか、というなら)
 
 創造は善でも悪でもない。
 それはあるがままにある。
 ものごとを自分の角度から眺め、自分の利益に沿うように解釈し、そのうえ
 にあらゆる類の説明を押しつけるのは人間の心なのだ。
 ひとりの女性はただの女性である。
 だが、ひとつの心は彼女を「母」と呼び、別の心は「妹」と呼ぶ。
 さらに別の心は「叔母」と呼ぶといったように。
 男は女を愛すが、蛇は憎む。
 そして道端の草や石には無関心だ。
 こういった価値判断が世界中のすべての不幸の原因なのである。(p365-366)


創造は菩提樹のよう

 創造は菩提樹のようだ。
 鳥たちがやってきては木の実をついばみ、枝の葉陰に巣をつくって憩う。
 人びとは木陰に涼む。
 だが、ある人はその枝で首を吊ってしまうかもしれない。
 それでも、樹はその静かな生を送り、人びとが彼をどう利用しょうと気にか
 けない。
 自分で困難をつくり出しておいて、それから救いを求めるのは人間の心なの
 である。
 ひとりの人には平和を与えておいて、別の人には苦しみを与えるほど神は不
 公平だろうか?
 創造のなかにはすべてをつくり出せるほどのじゅうぶんな空間がある。
 だが、人は真、善、美を見ようとしない。
 その代わりに、彼はご馳走の横に座っていながら手を伸ばすこともせず、
 「いったい誰の責任だ、神のか、人間のか?」
 と泣き言を言いつづける空腹の人のようなものである。(p366)


苦しむ人

 (もし神がすべてであるなら、どうして個人は自分の行為によって苦しむの
  か、個人に苦しみをもたらした行為でさえ神によって引き起こされたので
  はないか、というなら)
 
 自分を行為する人だと思う人が苦しむ人でもある。(p366)


個人は単なる神の道具

 (行為は神によって引き起こされ、個人は単なる神の道具であるのに苦しむ
  のは理不尽だ、というなら)
 
 この論理が通用するのは人が苦しんだときだけであって、喜んでいるときで
 はない。
 もしその確信が確立されれば、苦しみもなくなることだろう。(p366)


苦しみがやむのは

 (苦しみがやむのはいつのことか、というなら)

 個我が失われるまでは無理である。
 善行と悪行がどちらも神のものであるなら、どうして喜びと苦しみだけがあ
 なたのものなのか?
 善と悪を行なうその人が、喜びと苦しみも味わうのだ。
 あるがままにあらしめなさい。
 そして自分自身に苦しみを押しつけるのはやめなさい。(p366-367)


善行と悪行が

 (苦しみがやむのはいつのことか、というなら)

 個我が失われるまでは無理である。
 善行と悪行がどちらも神のものであるなら、どうして喜びと苦しみだけがあ
 なたのものなのか?
 善と悪を行なうその人が、喜びと苦しみも味わうのだ。
 あるがままにあらしめなさい。
 そして自分自身に苦しみを押しつけるのはやめなさい。(p366-367)


善と悪を行なう

 (苦しみがやむのはいつのことか、というなら)

 個我が失われるまでは無理である。
 行と行がどちらも神のものであるなら、どうして喜びと苦しみだけがあ
 なたのものなのか?
 善と悪を行なうその人が、喜びと苦しみも味わうのだ。
 あるがままにあらしめなさい。
 そして自分自身に苦しみを押しつけるのはやめなさい。(p366-367)


自己の実在

 ハートとしてすべての人の内に輝く自己の実在は、純粋な至福の大海である。
 それゆえ、空の青さが実在ではないように、苦しみも実在ではなく、単なる
 想像のなかにしか存在しない。
 無知の暗闇に妨げられることのないジニャーナの太陽は、自ら幸福として輝
 いている。
 それこそが自己の実在であり、苦しみとは個人という偽りの感覚から生まれ
 た幻でしかない。
 
 実際、幻として以外に苦しみを体験した者は誰もいない。
 もし至福である真我を探究すれば、生涯苦しみを味わうことはないだろう。
 身体が「私」であるという観念、ただその妄想だけが苦しみの原因なのであ
 る。(p367)


至福の大海

 ハートとしてすべての人の内に輝く自己の実在は、純粋な至福の大海である。
 それゆえ、空の青さが実在ではないように、苦しみも実在ではなく、単なる
 想像のなかにしか存在しない。
 無知の暗闇に妨げられることのないジニャーナの太陽は、自ら幸福として輝
 いている。
 それこそが自己の実在であり、苦しみとは個人という偽りの感覚から生まれ
 た幻でしかない。
 
 実際、幻として以外に苦しみを体験した者は誰もいない。
 もし至福である真我を探究すれば、生涯苦しみを味わうことはないだろう。
 身体が「私」であるという観念、ただその妄想だけが苦しみの原因なのであ
 る。(p367)


苦しみを体験

 ハートとしてすべての人の内に輝く自己の実在は、純粋な至福の大海である。
 それゆえ、空の青さが実在ではないように、苦しみも実在ではなく、単なる
 想像のなかにしか存在しない。
 無知の暗闇に妨げられることのないジニャーナの太陽は、自ら幸福として輝
 いている。
 それこそが自己の実在であり、苦しみとは個人という偽りの感覚から生まれ
 た幻でしかない。
 
 実際、幻として以外に苦しみを体験した者は誰もいない。
 もし至福である真我を探究すれば、生涯苦しみを味わうことはないだろう。
 身体が「私」であるという観念、ただその妄想だけが苦しみの原因なのであ
 る。(p366-367)


苦しみの原因B

 ハートとしてすべての人の内に輝く自己の実在は、純粋な至福の大海である。
 それゆえ、空の青さが実在ではないように、苦しみも実在ではなく、単なる
 想像のなかにしか存在しない。
 無知の暗闇に妨げられることのないジニャーナの太陽は、自ら幸福として輝
 いている。
 それこそが自己の実在であり、苦しみとは個人という偽りの感覚から生まれ
 た幻でしかない。
 
 実際、幻として以外に苦しみを体験した者は誰もいない。
 もし至福である真我を探究すれば、生涯苦しみを味わうことはないだろう。
 身体が「私」であるという観念、ただその妄想だけが苦しみの原因なのであ
 る。(p366-367)


心と身体が苦しむ

 (私は心身ともに苦しんできました。誕生したその日から、一度も幸
     せだったことがありません。私の母も私を身ごもって以来、苦しみ
     つづけてきたと聞いています。どうして私はこのように苦しむので
     しょうか? 私はこの人生で罪を犯したことはありません。これは
     みな過去生での罪が原因なのでしょうか?
 
 マハルシ
 あなたは心と身体が苦しむと言う。
 だが、心と身体がそう言うのかね?
 質問しているのは誰だろうか?
 それは心と身体を超えたものではないだろうか?
 この生で身体が苦しむのは、前世に原因があるとあなたは言う。
 もしそうであれば、現世の原因はひとつ前の生にあり、その生はもうひとつ
 前の生に原因があるというようにつづいていく。
 種と芽のように、因果関係の連鎖には際限がない。
 だから、すべての転生の最初の原因は、無知にあると言わねばならない。
 その同じ無知が今も存在して、この質問を生みだしているのである。
 その無知がジニャーナによって取り払われなければならない。
 「なぜ、誰にこの苦しみはやってくるのか?」。
 もしあなたがこのように問いただせば、「私」は心や身体とは別のものであ
 ることに気づくだろう。
 真我だけが永遠の存在であり、それこそが永遠の至福、ジニャーナなのであ
 る。(p367-368)


不安や心配は

 (私は絶え間ない不安や心配で苦しみ、心の平和を知らない、というなら)
 
 その不安や心配は眠りのなかでもあなたに影響を与えるだろうか?
 
 (いいえ、与えません)
 
 あなたは心配事なしに眠っていたその人と違う人だろうか、あるいは同じ人
 だろうか?
 
 (同じ人です)
 
 ならば間違いなく、その心配事はあなたに属するものではない。
 心配事があなたのものだと決めてかかるのは、あなた自身の誤りなのである。(p368)


眠りのなかではA

 眠りのなかでは、あなたは世界とその苦しみに気づいていないが、今目覚め
 の状態のなかではそれを意識している。
 あなたがそれらに悩まされていない状態のなかにとどまりなさい。
 つまりあなたが世界に気づいていないとき、その苦しみはあなたに影響を与
 えていない。
 眠りのときのように、あなたが真我としてとどまるとき、世界とその苦しみ
 はあなたに影響を与えないだろう。
 それゆえ、内面を見なさい。
 真我を見なさい!
 そのとき、世界とその不幸は終焉するだろう。(p372)


世界苦しみ

 眠りのなかでは、あなたは世界とその苦しみに気づいていないが、今目覚め
 の状態のなかではそれを意識している。
 あなたがそれらに悩まされていない状態のなかにとどまりなさい。
 つまりあなたが世界に気づいていないとき、その苦しみはあなたに影響を与
 えていない。
 眠りのときのように、あなたが真我としてとどまるとき、世界とその苦しみ
 はあなたに影響を与えないだろう。
 それゆえ、内面を見なさい。
 真我を見なさい!
 そのとき、世界とその不幸は終焉するだろう。(p372)


不幸は終焉する

 眠りのなかでは、あなたは世界とその苦しみに気づいていないが、今目覚め
 の状態のなかではそれを意識している。
 あなたがそれらに悩まされていない状態のなかにとどまりなさい。
 つまりあなたが世界に気づいていないとき、その苦しみはあなたに影響を与
 えていない。
 眠りのときのように、あなたが真我としてとどまるとき、世界とその苦しみ
 はあなたに影響を与えないだろう。
 それゆえ、内面を見なさい。
 真我を見なさい!
 そのとき、世界とその不幸は終焉するだろう。(p372)


利己主義

 真我を見なさい!
 そのとき、世界とその不幸は終焉するだろう。
 
 (しかし、それは利己主義です、というなら)
 
 世界は外側にあるのではない。
 あなたが誤って身体と同一化するために、世界を外側に見て、その苦しみが
 現れるのである。
 だが、それは実在ではない。
 実在を探究し、非実在の感覚を取り去りなさい。(p372)


あなたのなかにある

 (世界の状況を改善するために何ができるか、というなら)
 
 もしあなたが苦しみから解放されれば、苦しみはどこにもなくなるだろう。
 問題はあなたが世界を外側に見、そこに苦しみがあると考えるからである。
 だが、世界もその苦しみもあなたのなかにある。
 もしあなたが内側を見れば、苦しみはなくなるだろう。(p373)


神は完全である

 (神は完全であるのに、なぜ世界を不完全に創造したのか、というなら)
 
 この質問をするあなたはから分離しているだろうか?
 
 自分自身を身体だと考えているかぎり、あなたは世界を外側に見る。
 そして、それはあなたにとって不完全なものとして現れるだろう。
 神は完全である。
 彼の仕事も完全である。
 だが、あなたの誤った自己同一化のため、世界を不完全なものと見るのであ
 る。(p373)


悲惨な世界

 (なぜ真我はこの悲惨な世界として現れるのか、というなら)
 
 あなたに真我を探させるためである。
 あなたの目はそれ自身を見ることができない。
 鏡を置いてみなさい。
 そうすれば目はそれ自身を見ることができる。
 創造についても同じことである。
 
 「まず、あなた自身を見なさい。そして全世界を真我として見なさい」(p373)


真我を探させる

 (なぜ真我はこの悲惨な世界として現れるのか、というなら)
 
 あなたに真我を探させるためである。
 あなたの目はそれ自身を見ることができない。
 鏡を置いてみなさい。
 そうすれば目はそれ自身を見ることができる。
 創造についても同じことである。
 
 「まず、あなた自身を見なさい。そして全世界を真我として見なさい」(p373)


世界に対して目を閉じる

 (私は世界をまったく見るべきではないのか、というなら)
 
 あなたは世界に対して目を閉じるようにと言われたわけではない。
 まず、あなた自身を見て、それから全世界を真我として見なさい。
 もしあなたが自分自身を身体だと考えるなら、世界は外側に現れる。
 もしあなたが真我であるなら、世界はブラフマンとして現れるのである。(p374)


世界を真我として

 (私は世界をまったく見るべきではないのか、というなら)
 
 あなたは世界に対して目を閉じるようにと言われたわけではない。
 まず、あなた自身を見て、それから全世界を真我として見なさい。
 もしあなたが自分自身を身体だと考えるなら、世界は外側に現れる。
 もしあなたが真我であるなら、世界はブラフマンとして現れるのである。(p374)


世界はブラフマンとして

 (私は世界をまったく見るべきではないのか、というなら)
 
 あなたは世界に対して目を閉じるようにと言われたわけではない。
 まず、あなた自身を見て、それから全世界を真我として見なさい。
 もしあなたが自分自身を身体だと考えるなら、世界は外側に現れる。
 もしあなたが真我であるなら、世界はブラフマンとして現れるのである。(p374)


世界平和のために

 (世界平和のために働くには何が最善の方法か、というなら)
 
 世界とは何だろうか?
 平和とは何だろうか、そして働く人とは誰だろうか?
 眠りのなかに世界はなかった。
 ジャーグラト(目覚めの状態)のなかに、あなたの心が世界を投影するので
 ある。
 それゆえ、世界とはひとつの観念以外の何ものでもない。
 平和とは妨害の不在である。
 妨害は、ただ純粋意識から立ち現れた自我である個人に想念が起こるためで
 ある。
 
 平和をもたらすこととは想念から自由になり、純粋な意識としてとどまるこ
 とである。
 もし自分自身が平和ならば、どこにでもただ平和を見いだすだろう。(p374)


平和とは何だろうか

 (世界平和のために働くには何が最善の方法か、というなら)
 
 世界とは何だろうか?
 平和とは何だろうか、そして働く人とは誰だろうか?
 眠りのなかに世界はなかった。
 ジャーグラト(目覚めの状態)のなかに、あなたの心が世界を投影するので
 ある。
 それゆえ、世界とはひとつの観念以外の何ものでもない。
 平和とは妨害の不在である。
 妨害は、ただ純粋意識から立ち現れた自我である個人に想念が起こるためで
 ある。
 
 平和をもたらすこととは想念から自由になり、純粋な意識としてとどまるこ
 とである。
 もし自分自身が平和ならば、どこにでもただ平和を見いだすだろう。(p374)


心が世界を投影

 (世界平和のために働くには何が最善の方法か、というなら)
 
 世界とは何だろうか?
 平和とは何だろうか、そして働く人とは誰だろうか?
 眠りのなかに世界はなかった。
 ジャーグラト(目覚めの状態)のなかに、あなたの心が世界を投影するので
 ある。
 それゆえ、世界とはひとつの観念以外の何ものでもない。
 平和とは妨害の不在である。
 妨害は、ただ純粋意識から立ち現れた自我である個人に想念が起こるためで
 ある。
 
 平和をもたらすこととは想念から自由になり、純粋な意識としてとどまるこ
 とである。
 もし自分自身が平和ならば、どこにでもただ平和を見いだすだろう。(p374)


世界とはひとつの観念

 (世界平和のために働くには何が最善の方法か、というなら)
 
 世界とは何だろうか?
 平和とは何だろうか、そして働く人とは誰だろうか?
 眠りのなかに世界はなかった。
 ジャーグラト(目覚めの状態)のなかに、あなたの心が世界を投影するので
 ある。
 それゆえ、世界とはひとつの観念以外の何ものでもない。
 平和とは妨害の不在である。
 妨害は、ただ純粋意識から立ち現れた自我である個人に想念が起こるためで
 ある。
 
 平和をもたらすこととは想念から自由になり、純粋な意識としてとどまるこ
 とである。
 もし自分自身が平和ならば、どこにでもただ平和を見いだすだろう。(p374)


正しい間違い

 (もし何か間違ったことと知りながらも、それをすることが他の人を悪から
  救うならば、それをするべきか、それとも控えるべきか?、というなら)
 
 何が正しく何が間違いなのだろうか?
 何かを正しいとし、何かを間違いだと判断する基準はない。
 個人の性質や周囲の環境にしたがって意見はさまざまである。
 それらもまた観念にすぎず、それ以上の何ものでもない。
 それらを気に病むよりも、想念自体から自由になりなさい。
 もしあなたがつねに正しく在りつづければ、世界のなかに善が広まっていく
 だろう。(p374-375)


正しい行為@

 (正しい行動は、解脱を確実に達成するのにじゆうぶんか、というなら)
 
 誰にとっての解脱だろう?
 誰が解脱を求めているのだろうか?
 そして正しい行為とは何だろうか?
 行為とは何だろうか?
 そして正しさとは何だろうか?
 過去のサンスカーラ(潜在的傾向)にしたがって、各人が何かを正しいと考
 え、他の何かを誤りだと考えるのである。
 実在が知られたときにのみ、正しさと誤りが何なのかを知るだろう。
 誰がこの解脱を求めているのか、それを見いだすことが最善の方法である。
 この「誰」、または自我をその源にまでたどることが、すべての人にとって
 正しい行為なのである。(p375)


正しい行為A

 (正しい行為(ニティヤ・カルマ)の実践は解脱へと導くのではないか?
  多くの聖典がそのように述べている、というなら)
 
 確かに聖典にはそう述べられている。
 正しい行為が正しいものである。
 それが最終的には解脱へと導くことを誰が否定したというのかね?
 善行あるいはサット・カルマはチッタあるいは心を清らかにし、あなたにチ
 ッタ・スッダ(純粋な心)を与える。
 その純粋な心がジニャーナ、つまり解脱を達成するのである。
 それゆえ、結果的にはジニャーナが達成されなければならない。
 つまり、自我はその源までたどり着かなければならないのである。
 だが、この真我探究に引きつけられない者たちに対しては、サット・カルマ
 がチッタ・スッダに導き、チッタ・スッダはジニャーナに導く。
 そうすることで、ついには解脱に達するのだ、とわれわれは言わなければな
 らないのである。(p375)


善行(サット・カルマ)

 (正しい行為(ニティヤ・カルマ)の実践は解脱へと導くのではないか?
  多くの聖典がそのように述べている、というなら)
 
 確かに聖典にはそう述べられている。
 正しい行為が正しいものである。
 それが最終的には解脱へと導くことを誰が否定したというのかね?
 善行あるいはサット・カルマはチッタあるいは心を清らかにし、あなたにチ
 ッタ・スッダ(純粋な心)を与える。
 その純粋な心がジニャーナ、つまり解脱を達成するのである。
 それゆえ、結果的にはジニャーナが達成されなければならない。
 つまり、自我はその源までたどり着かなければならないのである。
 だが、この真我探究に引きつけられない者たちに対しては、サット・カルマ
 がチッタ・スッダに導き、チッタ・スッダはジニャーナに導く。
 そうすることで、ついには解脱に達するのだ、とわれわれは言わなければな
 らないのである。(p375-376)


サット・カルマ(善行)

 (正しい行為(ニティヤ・カルマ)の実践は解脱へと導くのではないか?
  多くの聖典がそのように述べている、というなら)
 
 確かに聖典にはそう述べられている。
 正しい行為が正しいものである。
 それが最終的には解脱へと導くことを誰が否定したというのかね?
 善行あるいはサット・カルマはチッタあるいは心を清らかにし、あなたにチ
 ッタ・スッダ(純粋な心)を与える。
 その純粋な心がジニャーナ、つまり解脱を達成するのである。
 それゆえ、結果的にはジニャーナが達成されなければならない。
 つまり、自我はその源までたどり着かなければならないのである。
 だが、この真我探究に引きつけられない者たちに対しては、サット・カルマ
 がチッタ・スッダに導き、チッタ・スッダはジニャーナに導く。
 そうすることで、ついには解脱に達するのだ、とわれわれは言わなければな
 らないのである。(p375-376)


動機について

 (動機についてはどうか? 行為をするのに、動機は重要なものではないか、
  というなら)
 
 何であれ誠実に、高潔な純粋さと平和な心で行なわれた行為は善い行為であ
 る。
 欲望の汚れと心の乱れとともに為された行為は、すべて悪の行為と見なされ
 る。
 「結果が良ければじゅうぶんだ」と考えて、悪い手段を用いて善行(カルマ)
 を行なってはならない。
 なぜなら、手段が悪いものなら善行でさえ悪いものとなってしまうからであ
 る。
 それゆえ、手段もまた純粋なものであるべきである。(p376)


行為/動機/手段

 (動機についてはどうか? 行為をするのに、動機は重要なものではないか、
  というなら)
 
 何であれ誠実に、高潔な純粋さと平和な心で行なわれた行為は善い行為であ
 る。
 欲望の汚れと心の乱れとともに為された行為は、すべて悪の行為と見なされ
 る。
 「結果が良ければじゅうぶんだ」と考えて、悪い手段を用いて善行(カルマ)
 を行なってはならない。
 なぜなら、手段が悪いものなら善行でさえ悪いものとなってしまうからであ
 る。
 それゆえ、手段もまた純粋なものであるべきである。(p376)


罪の報い

 (「私たちはみな自由で、束縛されてはいない。炎から火花が生まれるよう
  に、私たちもみな神から生まれ、そして神に戻るのだ」とシャンカラは述
  べている。ならば、なぜ私たちはあらゆる類のを犯すのか、というなら)
 
 われわれが束縛されず、真我には何の拘束もないことは真実である。
 あなたが最終的にはあなたの源へとたどり着くことも、また真実である。
 だがそれまでの間、もしあなたがと呼ぶものを犯すなら、
 そのような罪の報いに直面しなければなるまい。
 それを避けることはできない。
 もし誰かがあなたを叩いたら、そのときあなたは
 「私は自由だ。
  私はそのような殴打に拘束されない。
  私は何の痛みも感じない。
  彼につづけて殴らせるがいい」
 と言えるだろうか?
 もしそう感じるとすれば、何でもあなたの好きなようにすればよい。
 ただ単に口先だけで「私は自由だ」と言うことが何の役に立つというのかね?(p376-377)


単に口先だけで

 (「私たちはみな自由で、束縛されてはいない。炎から火花が生まれるよう
  に、私たちもみな神から生まれ、そして神に戻るのだ」とシャンカラは述
  べている。ならば、なぜ私たちはあらゆる類の罪を犯すのか、というなら)
 
 われわれが束縛されず、真我には何の拘束もないことは真実である。
 あなたが最終的にはあなたの源へとたどり着くことも、また真実である。
 だがそれまでの間、もしあなたが罪と呼ぶものを犯すなら、そのような罪の
 報いに直面しなければなるまい。
 それを避けることはできない。
 もし誰かがあなたを叩いたら、そのときあなたは
 「私は自由だ。
  私はそのような殴打に拘束されない。
  私は何の痛みも感じない。
  彼につづけて殴らせるがいい」
 と言えるだろうか?
 もしそう感じるとすれば、何でもあなたの好きなようにすればよい。
 ただ単に口先だけで「私は自由だ」と言うことが何の役に立つというのかね?(p376-377)


悪い習慣や悪い行為

 (全宇宙は神の意識の戯れであり、すべてはブラフマンで満ちていると言わ
  れている。ならば、なぜ悪い習慣や悪い行為が放棄されなければならない
  と言われるのか、というなら)
 
 人間の身体のなかに何かの傷があると考えてみなさい。
 もしあなたが、それは身体のなかの小さな一部分にすぎないとして無視すれば、
 痛みが全身に広がる原因となる。
 もし通常の治療がなされなければ、医師が来て、悪化した傷口をナイフで切り
 開き、化膿した部分を取り去らなければならないだろう。
 もし切り取らなければ、それは悪化するばかりだろう。
 そして、もし手術後に包帯をしなければ膿が出るだろう。
 それと同じことが行為についても言えるのである。
 悪い習慣悪い行為は身体のなかの傷と同じである。
 どの病気にも適切な治療法が与えられなければならない。(p377)


身体のなかの傷

 (全宇宙は神の意識の戯れであり、すべてはブラフマンで満ちていると言わ
  れている。ならば、なぜ悪い習慣や悪い行為が放棄されなければならない
  と言われるのか、というなら)
 
 人間の身体のなかに何かのがあると考えてみなさい。
 もしあなたが、それは身体のなかの小さな一部分にすぎないとして無視すれば、
 痛みが全身に広がる原因となる。
 もし通常の治療がなされなければ、医師が来て、悪化した傷口をナイフで切り
 開き、化膿した部分を取り去らなければならないだろう。
 もし切り取らなければ、それは悪化するばかりだろう。
 そして、もし手術後に包帯をしなければ膿が出るだろう。
 それと同じことが行為についても言えるのである。
 悪い習慣と悪い行為は身体のなかの傷と同じである。
 どの病気にも適切な治療法が与えられなければならない。(p377)


規則真我探究

 (慣習的な行動のきまりを守るべきか、というなら)
 
 自己修養のために定められた規則(ニヤマ)はある程度の助けとなるため、
 それらには受け入れ、従うだけの価値がある。
 だが、もし規則がより優れた真我探究の障害となるとわかったときは、すぐ
 にでも不適切なものとして放棄すべきである。(p377)


プラーラブダ・カルマ

 (この身体が終わるまでつづくと言われているプラーラブダ・カルマ(運命)
  を、身体が存在する間に克服することができるか、というなら)
 
 できる。
 カルマは、身体と真我の間に生じた自我と呼ばれる行為者に依存している。
 自我がその源のなかに溶けて姿を消してしまえば、それに依存しているカル
 マも生き残ることはできない。
 それゆえ、「私」がないところにはカルマもない。(p380)


カルマ行為者

 (この身体が終わるまでつづくと言われているプラーラブダ・カルマ(運命)
  を、身体が存在する間に克服することができるか、というなら)
 
 できる。
 カルマは、身体と真我の間に生じた自我と呼ばれる行為者に依存している。
 自我がその源のなかに溶けて姿を消してしまえば、それに依存しているカル
 マも生き残ることはできない。
 それゆえ、「私」がないところにはカルマもない。(p380)


運命行為者

 (この身体が終わるまでつづくと言われているプラーラブダ・カルマ(運命)
  を、身体が存在する間に克服することができるか、というなら)
 
 できる。
 カルマは、身体と真我の間に生じた自我と呼ばれる行為者に依存している。
 自我がその源のなかに溶けて姿を消してしまえば、それに依存しているカル
 マも生き残ることはできない。
 それゆえ、「私」がないところにはカルマもない。(p380)


自我カルマ

 (この身体が終わるまでつづくと言われているプラーラブダ・カルマ(運命)
  を、身体が存在する間に克服することができるか、というなら)
 
 できる。
 カルマは、身体と真我の間に生じた自我と呼ばれる行為者に依存している。
 自我がその源のなかに溶けて姿を消してしまえば、それに依存しているカル
 マも生き残ることはできない。
 それゆえ、「私」がないところにはカルマもない。(p380)


スライドの展示会

 (プラーラブダ・カルマは前世から積まれたカルマの小さなひとかけらにす
  ぎないと言われているが、これは本当なのか、というなら)
 
 人は前世で多くのカルマを積んできたかもしれない。
 そのなかのわずかなものだけがこの生のために選ばれ、人はその結実を現世
 で味わうことになる。
 それはちょうどスライドの展示会で、投影する人がショーに出すスライドだ
 けを選びとり、残りのスライドは次のショーのためにとっておくようなもの
 である。
 これらのカルマはすべて、真我の知識を得ることによって破壊される。
 過去の体験の結果であるカルマがスライドであり、心が投影機である。
 その投影機が破壊されなければならない。
 そうすればこれ以上の投影はなく、これ以上の誕生も死もないだろう。(p380-381)


カルマがスライド

 (プラーラブダ・カルマは前世から積まれたカルマの小さなひとかけらにす
  ぎないと言われているが、これは本当なのか、というなら)
 
 人は前世で多くのカルマを積んできたかもしれない。
 そのなかのわずかなものだけがこの生のために選ばれ、人はその結実を現世
 で味わうことになる。
 それはちょうどスライドの展示会で、投影する人がショーに出すスライドだ
 けを選びとり、残りのスライドは次のショーのためにとっておくようなもの
 である。
 これらのカルマはすべて、真我の知識を得ることによって破壊される。
 過去の体験の結果であるカルマがスライドであり、心が投影機である。
 その投影機が破壊されなければならない。
 そうすればこれ以上の投影はなく、これ以上の誕生も死もないだろう。(p380-381)


心が投影機

 (プラーラブダ・カルマは前世から積まれたカルマの小さなひとかけらにす
  ぎないと言われているが、これは本当なのか、というなら)
 
 人は前世で多くのカルマを積んできたかもしれない。
 そのなかのわずかなものだけがこの生のために選ばれ、人はその結実を現世
 で味わうことになる。
 それはちょうどスライドの展示会で、投影する人がショーに出すスライドだ
 けを選びとり、残りのスライドは次のショーのためにとっておくようなもの
 である。
 これらのカルマはすべて、真我の知識を得ることによって破壊される。
 過去の体験の結果であるカルマがスライドであり、心が投影機である。
 その投影機が破壊されなければならない。
 そうすればこれ以上の投影はなく、これ以上の誕生も死もないだろう。(p380-381)


誰が投影するのか?

 (誰が投影するのか? サンチタ・カルマのなかからわずかな部分を選びと
  り、それをプラーラブダ・カルマとして体験させることを決定するその構
  造は、どういう仕組みになっているのか、というなら)
 
 個人はそれらのカルマに耐えなければならない。
 だが、イーシュワラ神は彼の目的にしたがってそれらのカルマを最善の状態
 に管理している。
 カルマの報いを操っているのは神だが、彼はそれにつけ加えたり、それから
 取り去ったりするのではない。
 人間の無意識層は善業と悪業の倉庫である。
 イーシュワラはこの倉庫から、それが喜ばしいものであれ、苦しみに満ちた
 ものであれ、それぞれの人にとって、その時どきの霊的進化のために最もふ
 さわしいものを選択するのである。
 それゆえ、何ひとつ任意のものはない。(p381)


イーシュワラ神@

 (誰が投影するのか? サンチタ・カルマのなかからわずかな部分を選びと
  り、それをプラーラブダ・カルマとして体験させることを決定するその構
  造は、どういう仕組みになっているのか、というなら)
 
 個人はそれらのカルマに耐えなければならない。
 だが、イーシュワラ神は彼の目的にしたがってそれらのカルマを最善の状態
 に管理している。
 カルマの報いを操っているのはだが、彼はそれにつけ加えたり、それから
 取り去ったりするのではない。
 人間の無意識層は善業と悪業の倉庫である。
 イーシュワラはこの倉庫から、それが喜ばしいものであれ、苦しみに満ちた
 ものであれ、それぞれの人にとって、その時どきの霊的進化のために最もふ
 さわしいものを選択するのである。
 それゆえ、何ひとつ任意のものはない。(p381)


カルマの報い

 (誰が投影するのか? サンチタ・カルマのなかからわずかな部分を選びと
  り、それをプラーラブダ・カルマとして体験させることを決定するその構
  造は、どういう仕組みになっているのか、というなら)
 
 個人はそれらのカルマに耐えなければならない。
 だが、イーシュワラ神は彼の目的にしたがってそれらのカルマを最善の状態
 に管理している。
 カルマの報いを操っているのは神だが、彼はそれにつけ加えたり、それから
 取り去ったりするのではない。
 人間の無意識層は善業と悪業の倉庫である。
 イーシュワラはこの倉庫から、それが喜ばしいものであれ、苦しみに満ちた
 ものであれ、それぞれの人にとって、その時どきの霊的進化のために最もふ
 さわしいものを選択するのである。
 それゆえ、何ひとつ任意のものはない。(p381)


人間の無意識層

 カルマの報いを操っているのは神だが、彼はそれにつけ加えたり、それから
 取り去ったりするのではない。
 人間の無意識層は善業と悪業の倉庫である。
 イーシュワラはこの倉庫から、それが喜ばしいものであれ、苦しみに満ちた
 ものであれ、それぞれの人にとって、その時どきの霊的進化のために最もふ
 さわしいものを選択するのである。
 それゆえ、何ひとつ任意のものはない。(p381)


イーシュワラ神A

 (『ウパデシャ・サーラム』のなかで、あなたは「カルマは神(カルタ)の
  定めによって結果を生じる」と述べている。つまり私たちは、すべて神の
  意志によってカルマの報いを受けるという意味なのか、というなら)
 
 この節のなかの「カルタ」とはイーシュワラ神を意味している。
 カルマにしたがって各人は行為の報いをイーシュワラ神から割り当てられる。
 それはつまり、イーシュワラとはブラフマンが人格神として姿を現したもの
 だということだ。
 真のブラフマンは非顕現であり、不動である。
 現れとしてのブラフマンがイーシュワラ神と名づけられただけである。
 彼がカルマにしたがって各人に行為の報いを与える。
 つまり彼はただの周旋人でしかなく、為された仕事に応じた賃金を支払って
 いるだけである。
 ただそれだけのことだ。
 このイーシュワラ神のシャクティ(力)なしではカルマも起こり得ない。
 それゆえ、それ自体ではカルマは作用しないと言われるのである。(p381-382)


真のブラフマン

 (『ウパデシャ・サーラム』のなかで、あなたは「カルマは神(カルタ)の
  定めによって結果を生じる」と述べている。つまり私たちは、すべて神の
  意志によってカルマの報いを受けるという意味なのか、というなら)
 
 この節のなかの「カルタ」とはイーシュワラ神を意味している。
 カルマにしたがって各人は行為の報いをイーシュワラ神から割り当てられる。
 それはつまり、イーシュワラとはブラフマンが人格神として姿を現したもの
 だということだ。
 真のブラフマンは非顕現であり、不動である。
 現れとしてのブラフマンがイーシュワラ神と名づけられただけである。
 彼がカルマにしたがって各人に行為の報いを与える。
 つまり彼はただの周旋人でしかなく、為された仕事に応じた賃金を支払って
 いるだけである。
 ただそれだけのことだ。
 このイーシュワラ神のシャクティ(力)なしではカルマも起こり得ない。
 それゆえ、それ自体ではカルマは作用しないと言われるのである。(p381-382)


周旋人

 (『ウパデシャ・サーラム』のなかで、あなたは「カルマは神(カルタ)の
  定めによって結果を生じる」と述べている。つまり私たちは、すべて神の
  意志によってカルマの報いを受けるという意味なのか、というなら)
 
 この節のなかの「カルタ」とはイーシュワラ神を意味している。
 カルマにしたがって各人は行為の報いをイーシュワラ神から割り当てられる。
 それはつまり、イーシュワラとはブラフマンが人格神として姿を現したもの
 だということだ。
 真のブラフマンは非顕現であり、不動である。
 現れとしてのブラフマンがイーシュワラ神と名づけられただけである。
 彼がカルマにしたがって各人に行為の報いを与える。
 つまり彼はただの周旋人でしかなく、為された仕事に応じた賃金を支払って
 いるだけである。
 ただそれだけのことだ。
 このイーシュワラ神のシャクティ(力)なしではカルマも起こり得ない。
 それゆえ、それ自体ではカルマは作用しないと言われるのである。(p381-382)


サンチタ・カルマ

 (現在体験していることが過去のカルマの結果なら、以前に犯した過ちを知
  れば、それらを正すことができるはず、というなら)
 
 たとえひとつの過ちが修正されたとしても、あなたに数限りない誕生を与え
 るサンチタ・カルマ全体が残っている。
 それゆえ、それは正しい方法ではない。
 草木は剪定するほど、より力強く生い茂る。
 あなたがカルマを修正すればするほど、それは蓄積していく。
 それゆえ、カルマの根元を見いだし、それを断ち切りなさい。(p382)
 [注]サンチタ・カルマ 前世から積まれてきたカルマの蓄え。


正しい方法

 (現在体験していることが過去のカルマの結果なら、以前に犯した過ちを知
  れば、それらを正すことができるはず、というなら)
 
 たとえひとつの過ちが修正されたとしても、あなたに数限りない誕生を与え
 るサンチタ・カルマ全体が残っている。
 それゆえ、それは正しい方法ではない。
 草木は剪定するほど、より力強く生い茂る。
 あなたがカルマを修正すればするほど、それは蓄積していく。
 それゆえ、カルマの根元を見いだし、それを断ち切りなさい。(p382)


剪定するほど

 (現在体験していることが過去のカルマの結果なら、以前に犯した過ちを知
  れば、それらを正すことができるはず、というなら)
 
 たとえひとつの過ちが修正されたとしても、あなたに数限りない誕生を与え
 るサンチタ・カルマ全体が残っている。
 それゆえ、それは正しい方法ではない。
 草木は剪定するほど、より力強く生い茂る。
 あなたがカルマを修正すればするほど、それは蓄積していく。
 それゆえ、カルマの根元を見いだし、それを断ち切りなさい。(p382)


カルマの根元

 (現在体験していることが過去のカルマの結果なら、以前に犯した過ちを知
  れば、それらを正すことができるはず、というなら)
 
 たとえひとつの過ちが修正されたとしても、あなたに数限りない誕生を与え
 るサンチタ・カルマ全体が残っている。
 それゆえ、それは正しい方法ではない。
 草木は剪定するほど、より力強く生い茂る。
 あなたがカルマを修正すればするほど、それは蓄積していく。
 それゆえ、カルマの根元を見いだし、それを断ち切りなさい。(p382)


カルマの理論

 (カルマの理論は世界が作用と反作用の結果であることを意味しているのか?
  もしそうであれば、何の作用と反作用か、というなら)
 
 真我を実現するまでは、作用と反作用であるカルマは存在するだろう。
 実現後には、カルマも世界もないだろ。(p382)


作用と反作用

 (カルマの理論は世界が作用と反作用の結果であることを意味しているのか?
  もしそうであれば、何の作用と反作用か、というなら)
 
 真我を実現するまでは、作用と反作用であるカルマは存在するだろう。
 実現後には、カルマも世界もないだろ。(p382)


結果の責任@

 (もし私が身体でないなら、どうして私の善業と悪業の結果の責任が、私に
  あるというのか、というなら)

 もしあなたが身体ではないなら、そして「私が行為者である」という観念を
 もたないなら、善業と悪業の結果があなたに影響を与えることはないだろう。
 なぜあなたは身体が為した行為について「私がこれをした」、「私があれを
 した」と言うのか?
 身体と同一化するかぎり、あなたは行為の結果に影響されるだろう。
 つまり身体と同一化しているかぎり、あなたは善と悪のカルマを積んでいる
 のである。(p382-383)


身体と同一化@

 (もし私が身体でないなら、どうして私の善業と悪業の結果の責任が、私に
  あるというのか、というなら)

 もしあなたが身体ではないなら、そして「私が行為者である」という観念を
 もたないなら、善業と悪業の結果があなたに影響を与えることはないだろう。
 なぜあなたは身体が為した行為について「私がこれをした」、「私があれを
 した」と言うのか?
 身体と同一化するかぎり、あなたは行為の結果に影響されるだろう。
 つまり身体と同一化しているかぎり、あなたは善と悪のカルマを積んでいる
 のである。(p382-383)


善と悪のカルマ

 (もし私が身体でないなら、どうして私の善業と悪業の結果の責任が、私に
  あるというのか、というなら)

 もしあなたが身体ではないなら、そして「私が行為者である」という観念を
 もたないなら、善業と悪業の結果があなたに影響を与えることはないだろう。
 なぜあなたは身体が為した行為について「私がこれをした」、「私があれを
 した」と言うのか?
 身体と同一化するかぎり、あなたは行為の結果に影響されるだろう。
 つまり身体と同一化しているかぎり、あなたは善と悪のカルマを積んでいる
 のである。(p382-383)


結果の責任A

 (しかし、私は身体ではないのだから、善業と悪業の結果の責任は私にはな
  いはずだ、というなら)
 
 もしあなたに責任がないのなら、なぜこの質問を気にするのかね?(p383)


努力恩寵か?

 (ある聖典には、人の努力はすべての力の源であり、それはカルマさえ超え
  られると述べられ、別の聖典では、すべては神の恩寵によると述べられて
  いる。どちらが正しいのか、というなら)
 
 そうだ。
 ある哲学の学派は、前世のカルマ以外に神というものは存在しないと言う。
 その聖典によれば、現世で為されたカルマはプルシャカーラ(人間の努力)
 として知られ、前世と現世のカルマは雄羊の角どうしが真っ向から衝突する
 ように出合い、弱いほうが消し去られるのである。
 そのために、これらの人びとは努力を強化しなさいと言うのである。
 もしあなたがこれらの人びとに「カルマの原因は何か」と尋ねれば、永遠の
 問いである「種子と木のどちらが先か?」のような質問はするものではない、
 と彼らは言うだろう。
 
 このような論争は、けっして最終的な真理に行き着くことのない単なる議論
 にすぎない。
 だからこそ私は、まずあなたが誰なのかを見いだしなさいと言うのである。
 「私は誰か?」、「どうして私はこの生の過ちを手にしたのか?」と尋ねれ
 ば、「私」は静まり、真我を実現するだろう。
 もしこの探究を正しく行なえば、過ちという観念は消え去り、平和が得られ
 るだろう。(p383-384)


カルマの原因

 (ある聖典には、人の努力はすべての力の源であり、それはカルマさえ超え
  られると述べられ、別の聖典では、すべては神の恩寵によると述べられて
  いる。どちらが正しいのか、というなら)
 
 そうだ。ある哲学の学派は、前世のカルマ以外に神というものは存在しない
 と言う。
 その聖典によれば、現世で為されたカルマはプルシャカーラ(人間の努力)
 として知られ、前世と現世のカルマは雄羊の角どうしが真っ向から衝突する
 ように出合い、弱いほうが消し去られるのである。
 そのために、これらの人びとは努力を強化しなさいと言うのである。
 もしあなたがこれらの人びとに「カルマの原因は何か」と尋ねれば、永遠の
 問いである「種子と木のどちらが先か?」のような質問はするものではない、
 と彼らは言うだろう。
 
 このような論争は、けっして最終的な真理に行き着くことのない単なる議論
 にすぎない。
 だからこそ私は、まずあなたが誰なのかを見いだしなさいと言うのである。
 「私は誰か?」、「どうして私はこの生の過ちを手にしたのか?」と尋ねれ
 ば、「私」は静まり、真我を実現するだろう。
 もしこの探究を正しく行なえば、過ちという観念は消え去り、平和が得られ
 るだろう。(p383-384)


誰がカルマを始めたのか?

 もしあなたがこれらの人びとに「カルマの原因は何か」と尋ねれば、永遠の
 問いである「種子と木のどちらが先か?」のような質問はするものではない、
 と彼らは言うだろう。
 
 このような論争は、けっして最終的な真理に行き着くことのない単なる議論
 にすぎない。
 だからこそ私は、まずあなたがなのかを見いだしなさいと言うのである。
 「私はか?」、「どうして私はこの生の過ちを手にしたのか?」と尋ねれ
 ば、「私」は静まり、真我を実現するだろう。
 もしこの探究を正しく行なえば、過ちという観念は消え去り、平和が得られ
 るだろう。
 なぜ得る必要さえあろうか?
 真我はあるがままに在るのである。
 「行為者である私とはか? 誰がカルマを始めたのか?」と問うことで、
 自己の真理を知ること、それがカルマの本質である。
 カルマを為す自我が探究によって消去されるまでは、カルマ・ヨーガの報い
 である至福の平和を達成することはできない。(p383-384)


カルマの本質

 もしあなたがこれらの人びとに「カルマの原因は何か」と尋ねれば、永遠の
 問いである「種子と木のどちらが先か?」のような質問はするものではない、
 と彼らは言うだろう。
 
 このような論争は、けっして最終的な真理に行き着くことのない単なる議論
 にすぎない。
 だからこそ私は、まずあなたが誰なのかを見いだしなさいと言うのである。
 「私は誰か?」、「どうして私はこの生の過ちを手にしたのか?」と尋ねれ
 ば、「私」は静まり、真我を実現するだろう。
 もしこの探究を正しく行なえば、過ちという観念は消え去り、平和が得られ
 るだろう。
 なぜ得る必要さえあろうか?
 真我はあるがままに在るのである。
 「行為者である私とは誰か? 誰がカルマを始めたのか?」と問うことで、
 自己の真理を知ること、それがカルマの本質である。
 カルマを為す自我が探究によって消去されるまでは、カルマ・ヨーガの報い
 である至福の平和を達成することはできない。(p383-384)


マントラやジャバ

 (マントラやジャバを修練することによって、悪業の報いをぬぐい去ること
  ができるのか、というなら)
 
 もし「私がジャバをしている」という感覚がなければ、犯した罪も彼から離
 れていくだろう。
 もし「私がジャバをしている」という感覚がそこにあれば、悪業の報いは彼
 につきまとうだろう。(p384)


悪業の報い

 (マントラやジャバを修練することによって、悪業の報いをぬぐい去ること
  ができるのか、というなら)
 
 もし「私がジャバをしている」という感覚がなければ、犯した罪も彼から離
 れていくだろう。
 もし「私がジャバをしている」という感覚がそこにあれば、悪業の報いは彼
 につきまとうだろう。(p384)


行為の結果

 「私がこれをしている」という感覚があるかぎり、人は良いものでも悪いも
 のでも行為の結果を経験しなければならない。
 どうしてひとつの行為で別の行為をぬぐい去ることが可能だろうか?
 「私がこれをしている」という感覚がなくなったとき、何もその人に影響を
 与えるものはない。
 真我が実現されないかぎり、「私がこれをしている」という感覚が消え去る
 ことはないだろう。
 真我を実現した人にとって、ジャバをする必要があるだろうか?
 タパス(苦行)の必要がどこにあるだろうか?
 プラーラブダの力によって、人生はつづいていく。
 だが、真我を実現した人にとって望むものは何ひとつないのである。(p384-385)


カルマ三つの種類

 プラーラブダ・カルマには三つの種類がある。
 イッチャー、アニッチャー、パレッチャー(個人的な欲望、無欲、他者のた
 めの欲望)である。
 真我を実現した人にとってイッチャー・プラーラブダは存在しないが、他の
 二つは残る。
 何であれジニャーニがすることは、他者のためだけに為される。
 他者のためにすることがあれば、彼はそれをする。
 だが、その結果が彼に影響を与えることはない。
 そのような人が為す行為には、どんな徳も罪もともなわない。
 ただ、彼らは世間に受け入れられた基準にしたがって正しいことだけを為す
 のである。
 それだけである。(p385)


欲望三つの種類

 プラーラブダ・カルマには三つの種類がある。
 イッチャー、アニッチャー、パレッチャー(個人的な欲望、無、他者のた
 めの欲望)である。
 真我を実現した人にとってイッチャー・プラーラブダは存在しないが、他の
 二つは残る。
 何であれジニャーニがすることは、他者のためだけに為される。
 他者のためにすることがあれば、彼はそれをする。
 だが、その結果が彼に影響を与えることはない。
 そのような人が為す行為には、どんな徳も罪もともなわない。
 ただ、彼らは世間に受け入れられた基準にしたがって正しいことだけを為す
 のである。
 それだけである。(p385)


他者のためだけ

 プラーラブダ・カルマには三つの種類がある。
 イッチャー、アニッチャー、パレッチャー(個人的な欲望、無欲、他者のた
 めの欲望)である。
 真我を実現した人にとってイッチャー・プラーラブダは存在しないが、他の
 二つは残る。
 何であれジニャーニがすることは、他者のためだけに為される。
 他者のためにすることがあれば、彼はそれをする。
 だが、その結果が彼に影響を与えることはない。
 そのような人が為す行為には、どんな徳も罪もともなわない。
 ただ、彼らは世間に受け入れられた基準にしたがって正しいことだけを為す
 のである。
 それだけである。(p385)


現世で体験されること

 現世で体験されることが、プラーラブダによってすでに決定されていること
 を知っている人は、何を体験しようとけっしてとまどわない。
 すべての体験は、それを望もうと望むまいと避けることのできないものだと
 知りなさい。(p385)


ジニャーニ身体

 あなたは自分が身体だと信じているため、ジニャーニ身体なのだと思いこ
 んでいる。
 ジニャーニ自身が身体をもっていると言ったかね?
 あなたの目には、彼が身体をもち、他の人たちのようにその身体でものごと
 を為しているように見えるかもしれない。
 だが、彼自身は身体をもっていないことを知っているのである。
 燃え尽きたロープは、いまだロープのように見えるかもしれない。
 だがそれで何かを結ほうとしても、ロープとして使うことはできない。
 ジニャーニも同じで、彼は他の人たちと同じように見えるかもしれないが、
 それは外見だけのことなのだ。(p386)


燃え尽きたロープ

 あなたは自分が身体だと信じているため、ジニャーニも身体なのだと思いこ
 んでいる。
 ジニャーニ自身が身体をもっていると言ったかね?
 あなたの目には、彼が身体をもち、他の人たちのようにその身体でものごと
 を為しているように見えるかもしれない。
 だが、彼自身は身体をもっていないことを知っているのである。
 燃え尽きたロープは、いまだロープのように見えるかもしれない。
 だがそれで何かを結ほうとしても、ロープとして使うことはできない。
 ジニャーニも同じで、彼は他の人たちと同じように見えるかもしれないが、
 それは外見だけのことなのだ。(p386)


身体と同一化A

 人が身体と同一化しているかぎり、これを理解することは困難かもしれない。
 そのため、このような質問に対しては、「ジニャーニの身体はプラーラブダ
 の力が尽き果てるまでつづき、それが尽き果てたときに身体は死ぬ」と、と
 きには答えられてきたのである。
 これに関連して、「すでに解き放たれた矢は的を射るまで突き進む」という
 説明もある。
 だが真実は、ジニャーニはプラーラブダも含めたすべてのカルマを超越して
 おり、彼は身体にも、そのカルマによっても束縛されることはない。(p386)


解き放たれた矢

人が身体と同一化しているかぎり、これを理解することは困難かもしれない。
 そのため、このような質問に対しては、「ジニャーニの身体はプラーラブダ
 の力が尽き果てるまでつづき、それが尽き果てたときに身体は死ぬ」と、と
 きには答えられてきたのである。
 これに関連して、「すでに解き放たれた矢は的を射るまで突き進む」という
 説明もある。
 だが真実は、ジニャーニはプラーラブダも含めたすべてのカルマを超越して
 おり、彼は身体にも、そのカルマによっても束縛されることはない。(p386)


身体カルマ

 人が身体と同一化しているかぎり、これを理解することは困難かもしれない。
 そのため、このような質問に対しては、「ジニャーニの身体はプラーラブダ
 の力が尽き果てるまでつづき、それが尽き果てたときに身体は死ぬ」と、と
 きには答えられてきたのである。
 これに関連して、「すでに解き放たれた矢は的を射るまで突き進む」という
 説明もある。
 だが真実は、ジニャーニはプラーラブダも含めたすべてのカルマを超越して
 おり、彼は身体にも、そのカルマによっても束縛されることはない。(p386)


無限の意識空間

 「私は在る」として広がり輝く無限の意識空間に絶えず注意を集中している
 人には、わずかなプラーラブダさえ存在しない。
 そのような人だけが、「天国に達した人は運命に支配されない」という古の
 言葉を理解することができるのである。(p386)


天国に達した人

 「私は在る」として広がり輝く無限の意識空間に絶えず注意を集中している
 人には、わずかなプラーラブダさえ存在しない。
 そのような人だけが、「天国に達した人は運命に支配されない」という古の
 言葉を理解することができるのである。(p386)


行為にはその結果が

 (もし予期もせず、努力もせずに自分のもとにやってきたものごとを楽しん
  だ場合、それによって何か悪い結果が訪れることはあるか、というなら)

 すべての行為にはその結果がともなう。
 プラーラブダが原因であなたのもとに何かが来たとすれば、それは避けられ
 ない。
 もしあなたがやってきたものを受け入れ、それ以上を望まず、再び起こるこ
 とを求めなければ、それ以上の誕生をもたらすような害をあなたに与えるこ
 とはないだろう。
 その反対に、もしあなたがそれに執着し、より多くを求めるなら、より多く
 の誕生をもたらすことはまぬがれない。(p386-387)


執着し、より多くを求めるなら

 (もし予期もせず、努力もせずに自分のもとにやってきたものごとを楽しん
  だ場合、それによって何か悪い結果が訪れることはあるか、というなら)

 すべての行為にはその結果がともなう。
 プラーラブダが原因であなたのもとに何かが来たとすれば、それは避けられ
 ない。
 もしあなたがやってきたものを受け入れ、それ以上を望まず、再び起こるこ
 とを求めなければ、それ以上の誕生をもたらすような害をあなたに与えるこ
 とはないだろう。
 その反対に、もしあなたがそれに執着し、より多くを求めるなら、より多く
 の誕生をもたらすことはまぬがれない。(p386-387)


自由意志の感覚

 (自由意志というものは存在するのか、というなら)
 
 誰の意志だろうか?
 行為者であるという感覚があるかぎり、それを楽しむ感覚自由意志の感覚
 は存在するだろう。
 だが、もしこの感覚がヴィチャーラ(真我探求)の修練によって失われたな
 ら、聖なる神の意志が働いて、出来事の流れを導いてくれるだろう。
 ジニャーナによって運命は克服される。
 真我の知識は自由意志も運命も超えているからである。(p388)


行為者であるという感覚

 (自由意志というものは存在するのか、というなら)
 
 誰の意志だろうか?
 行為者であるという感覚があるかぎり、それを楽しむ感覚と自由意志の感覚
 は存在するだろう。
 だが、もしこの感覚がヴィチャーラ(真我探求)の修練によって失われたな
 ら、聖なる神の意志が働いて、出来事の流れを導いてくれるだろう。
 ジニャーナによって運命は克服される。
 真我の知識は自由意志も運命も超えているからである。(p388)


聖なる神の意志

 (自由意志というものは存在するのか、というなら)
 
 誰の意志だろうか?
 行為者であるという感覚があるかぎり、それを楽しむ感覚と自由意志の感覚
 は存在するだろう。
 だが、もしこの感覚がヴィチャーラ(真我探求)の修練によって失われたな
 ら、聖なる神の意志が働いて、出来事の流れを導いてくれるだろう。
 ジニャーナによって運命は克服される。
 真我の知識は自由意志も運命も超えているからである。(p388)


扇を床の上に

 (人の人生において、彼の国、国民、家族、仕事、職業、結婚、死などにお
  ける顕著な出来事が、彼のカルマによってすべて宿命づけられていること
  は理解できるが、しかし彼の人生の詳細すべてに至るまで、取るに足らな
  いことまで、すでに決定されているのか?
  例えば、今私は手のなかの扇を床の上に置いた。それはこの日、この時間
  に、私がこのように扇を動かし、このようにここに置くということまで、
  すでに決定されているということなのか?)

 もちろんだ。
 何であれこの身体がすること、そして何であれそれが通り抜ける体験は、そ
 の身体が存在を現したときにすでに決定されているのである。(p388-389)


この日、この時間に

 (人の人生において、彼の国、国民、家族、仕事、職業、結婚、死などにお
  ける顕著な出来事が、彼のカルマによってすべて宿命づけられていること
  は理解できるが、しかし彼の人生の詳細すべてに至るまで、取るに足らな
  いことまで、すでに決定されているのか?
  例えば、今私は手のなかの扇を床の上に置いた。それはこの日、この時間
  に、私がこのように扇を動かし、このようにここに置くということまで、
  すでに決定されているということなのか?)

 もちろんだ。
 何であれこの身体がすること、そして何であれそれが通り抜ける体験は、そ
 の身体が存在を現したときにすでに決定されているのである。(p388-389)


身体がすること

 (人の人生において、彼の国、国民、家族、仕事、職業、結婚、死などにお
  ける顕著な出来事が、彼のカルマによってすべて宿命づけられていること
  は理解できるが、しかし彼の人生の詳細すべてに至るまで、取るに足らな
  いことまで、すでに決定されているのか?
  例えば、今私は手のなかの扇を床の上に置いた。それはこの日、この時間
  に、私がこのように扇を動かし、このようにここに置くということまで、
  すでに決定されているということなのか?)

 もちろんだ。
 何であれこの身体がすること、そして何であれそれが通り抜ける体験は、そ
 の身体が存在を現したときにすでに決定されているのである。(p388-389)


唯一の自由

 (身体が通り抜ける体験は、その身体が存在を現したときにすでに決定され
  ているのなら、人の自由や彼の行為に対する責任はどうなるのか、という
  なら)
 
 人が手にできる唯一の自由とは、努力をしてジニャーニを得ることである。
 それが彼と身体との同一化を断ち切る。
 身体はプラーラブダによって宿命づけられた、避けることのできない行為を
 通り抜けていくだろう。
 人は身体と彼自身を同一視し、その身体の行為の報いに執着するか、あるい
 はそれから離れ、身体の活動の単なる目撃者となるか、という選択の自由だ
 けをもっているのである。(p389)


単なる目撃者

 (身体が通り抜ける体験は、その身体が存在を現したときにすでに決定され
  ているのなら、人の自由や彼の行為に対する責任はどうなるのか、という
  なら)
 
 人が手にできる唯一の自由とは、努力をしてジニャーニを得ることである。
 それが彼と身体との同一化を断ち切る。
 身体はプラーラブダによって宿命づけられた、避けることのできない行為を
 通り抜けていくだろう。
 人は身体と彼自身を同一視し、その身体の行為の報いに執着するか、あるい
 はそれから離れ、身体の活動の単なる目撃者となるか、という選択の自由だ
 けをもっているのである。(p389)


選択の自由

 (身体が通り抜ける体験は、その身体が存在を現したときにすでに決定され
  ているのなら、人の自由や彼の行為に対する責任はどうなるのか、という
  なら)
 
 人が手にできる唯一の自由とは、努力をしてジニャーニを得ることである。
 それが彼と身体との同一化を断ち切る。
 身体はプラーラブダによって宿命づけられた、避けることのできない行為を
 通り抜けていくだろう。
 人は身体と彼自身を同一視し、その身体の行為の報いに執着するか、あるい
 はそれから離れ、身体の活動の単なる目撃者となるか、という選択の自由だ
 けをもっているのである。(p389)


自由意志

 (自由意志とは作り話なのか、というなら)
 
 自由意志は個人性に関わる領域で維持される。
 個人性が維持されるかぎり、自由意志は存在する。
 すべての聖典はこの事実を基盤としたうえで、自由意志を正しい経路に向け
 るように勧めている。
 
 誰にとって自由意志や運命が問題となるのか見いだしなさい。
 それらがどこから来るのか見いだし、そしてその源にとどまりなさい。
 もしあなたがそうするなら、その両方とも超越される。
 それがこの質問について論議をする唯一の目的なのである。
 誰にとってこの質問が起こったのか?
 それを見いだして、心安らかになりなさい。(p389)


唯一の目的

 (自由意志とは作り話なのか、というなら)
 
 自由意志は個人性に関わる領域で維持される。
 個人性が維持されるかぎり、自由意志は存在する。
 すべての聖典はこの事実を基盤としたうえで、自由意志を正しい経路に向け
 るように勧めている。
 
 誰にとって自由意志や運命が問題となるのか見いだしなさい。
 それらがどこから来るのか見いだし、そしてその源にとどまりなさい。
 もしあなたがそうするなら、その両方とも超越される。
 それがこの質問について論議をする唯一の目的なのである。
 誰にとってこの質問が起こったのか?
 それを見いだして、心安らかになりなさい。(p389)


運命を克服する

 (もし、起こる運命にあることが起こるのなら、祈りや努力が何の役に立つ
  のか? 私たちはただ怠惰に無為のままでいるべきなのか、というなら)
 
 運命を克服する、あるいは運命に依存しない方法が二つだけある。
 ひとつはこの運命が誰にとってのものなのかを探究し、そして運命に束縛さ
 れているのは、真我ではなく自我だけであって、自我は存在しないというこ
 とを発見する方法。
 もうひとつの方法は、いかに自分が無力であるかを悟り、
 「神様、私は存在しません。ただあなただけです」
 とつねに言うことで神に完全に明け渡し、「私」と「私のもの」という感覚
 を放棄して、神の意のままにあなたをゆだねることである。
 帰依者が神からあれやこれを望んでいるかぎり、明け渡しはけっして完全な
 ものになりえない。
 真実の明け渡しとは、愛ゆえに神に捧げる愛であり、ただそれだけのために
 ある。
 解脱のためでさえない。
 言葉を換えれば、真我探究の道であれ、バクティ・マールガ(明け渡しの道)
 であれ、運命を克服するには自我を完全に消し去ることが必要なのである。(p389-390)


方法が二つだけある

 (もし、起こる運命にあることが起こるのなら、祈りや努力が何の役に立つ
  のか? 私たちはただ怠惰に無為のままでいるべきなのか、というなら)
 
 運命を克服する、あるいは運命に依存しない方法が二つだけある。
 ひとつはこの運命が誰にとってのものなのかを探究し、そして運命に束縛さ
 れているのは、真我ではなく自我だけであって、自我は存在しないというこ
 とを発見する方法。
 もうひとつの方法は、いかに自分が無力であるかを悟り、
 「神様、私は存在しません。ただあなただけです」
 とつねに言うことで神に完全に明け渡し、「私」と「私のもの」という感覚
 を放棄して、神の意のままにあなたをゆだねることである。
 帰依者が神からあれやこれを望んでいるかぎり、明け渡しはけっして完全な
 ものになりえない。
 真実の明け渡しとは、愛ゆえに神に捧げる愛であり、ただそれだけのために
 ある。
 解脱のためでさえない。
 言葉を換えれば、真我探究の道であれ、バクティ・マールガ(明け渡しの道)
 であれ、運命を克服するには自我を完全に消し去ることが必要なのである。(p389-390)


真実の明け渡し

 (もし、起こる運命にあることが起こるのなら、祈りや努力が何の役に立つ
  のか? 私たちはただ怠惰に無為のままでいるべきなのか、というなら)
 
 運命を克服する、あるいは運命に依存しない方法が二つだけある。
 ひとつはこの運命が誰にとってのものなのかを探究し、そして運命に束縛さ
 れているのは、真我ではなく自我だけであって、自我は存在しないというこ
 とを発見する方法。
 もうひとつの方法は、いかに自分が無力であるかを悟り、
 「神様、私は存在しません。ただあなただけです」
 とつねに言うことで神に完全に明け渡し、「私」と「私のもの」という感覚
 を放棄して、神の意のままにあなたをゆだねることである。
 帰依者が神からあれやこれを望んでいるかぎり、明け渡しはけっして完全な
 ものになりえない。
 真実の明け渡しとは、愛ゆえに神に捧げる愛であり、ただそれだけのために
 ある。
 解脱のためでさえない。
 言葉を換えれば、真我探究の道であれ、バクティ・マールガ(明け渡しの道)
 であれ、運命を克服するには自我を完全に消し去ることが必要なのである。(p389-390)


私とは誰か?

 (私とは誰か?、というなら)
 七つの要素から成る粗大な身体、それはではない。
 五つの感覚器官、聴覚、触党、視覚、味覚、臭覚は、それぞれの対象である
 音、感触、色、味、匂いをとらえるが、はそれらではない。
 五つの能動的な器官である言語器官、運動器官、認識器官、排泄器官、生殖
 器官は、それぞれ活すこと、動くこと、理解すること、排泄すること、楽し
 むことという働きをするが、はそれらではない。
 五つの生気、すなわちプラーナなどは、吸気などの五つの働きをするが、そ
 れはではない。
 ものごとを考える心でさえ、ではない。
 対象物の印象だけが刻みこまれた無知も、対象物も働きもない無知も、で
 はない。
 
 今述べたことすべてを「これではない」、「これではない」と否定していっ
 たあとに、ただひとつ残る覚醒――それがである。(p393)


覚醒の本性は何か?

 (覚醒の本性は何か?、というなら)
 覚醒の本性は、存在−意識−至福である。(p394)


真我の実現はいつ得られるか?

 (真我の実現はいつ得られるか?、というなら)
 「見られるもの」である世界が取り除かれたとき、「見る者」である真我は
 実現されるだろう。(p394)


世界が在るかぎり

 (世界が存在するかぎり真我が実現されることはないのか?、というなら)
 ないだろう。
 
 見る者と見られている対象は、ロープと蛇のようなものである。
 錯覚である蛇という知識がなくならないかぎり、実体であるロープという知
 識は得られない。
 同じように、世界が実在であるという確信がなくならないかぎり、実在であ
 る真我の実現は得られないだろう。(p394)


世界真我

 (世界が(実在として)存在していながら、真我が実現されるということは
  ないのか?、というなら)
 ないだろう。
 
 見る者と見られている対象は、ロープと蛇のようなものである。
 錯覚である蛇という知識がなくならないかぎり、実体であるロープという知
 識は得られない。
 同じように、世界が実在であるという確信がなくならないかぎり、実在であ
 る真我の実現は得られないだろう。(p394)


世界はいつ消え去るか?

 (対象として見られている世界はいつ消え去るのか?、というなら)
 すべての認識作用とすべての行為を引き起こす原因である心が静かになった
 とき、世界は消え去るだろう。(p395)


心の本性とは何か?

 (心の本性とは何か?、というなら)
 「」と呼ばれているものは、真我に内在する驚くべき力である。
 はすべての想念を起こさせる源である。
 想念を離れてのようなものは存在しない。
 それゆえ、想念が心の本性である。
 想念を離れて、世界と呼ばれる独立した実体があるわけではない。
 深い眠りのなかに想念はなく、世界もない。
 クモが自分のなかから糸を出し、それをまた自分のなかに引き入れるのと同
 じように、心はそれ自身から世界を投影し、再びそれ自身のなかへ還元させ
 る。
 真我のなかからが外に出るとき、世界が現れる。
 それゆえ、世界が(実在として)現れているとき、真我は現れない。
 真我が輝いて現れるとき、世界は現れない。
 人が絶え問なくの本性を探究しつづけるならば、は真我をあとに残して
 死減するだろう。
 「真我」と呼ばれているものは、アートマンである。
 はつねに何か粗大なものに依存することによってのみ存在する。
 それはひとりであることができない。
 微細身あるいは個我(ジーヴァ)と呼ばれているのは、である。(p395)


想念世界

 想念を離れてのようなものは存在しない。
 それゆえ、想念の本性である。
 想念を離れて、世界と呼ばれる独立した実体があるわけではない。
 深い眠りのなかに想念はなく、世界もない。
 クモが自分のなかから糸を出し、それをまた自分のなかに引き入れるのと同
 じように、はそれ自身から世界を投影し、再びそれ自身のなかへ還元させ
 る。(p395)


真我世界

 真我のなかからが外に出るとき、世界が現れる。
 それゆえ、世界が(実在として)現れているとき、真我は現れない。
 真我が輝いて現れるとき、世界は現れない。
 人が絶え問なくの本性を探究しつづけるならば、真我をあとに残して
 死減するだろう。
 「真我」と呼ばれているものは、アートマンである。(p395)


 / 微細身 / 個我

 はつねに何か粗大なものに依存することによってのみ存在する。
 それはひとりであることができない。
 微細身あるいは個我(ジーヴァ)と呼ばれているのは、である。(p395-396)


探究の道とは何か?

 (心の本性を理解する探究の道とは何か?、というなら)
 身体のなかに「私」として立ち現れるものが心である。
 もし身体のなかのどこに「私」という想念が最初に現れるかを探究するなら、
 それはハートのなかに現れることが発見されるだろう。
 そこが心の起源となる場所である。
 絶えず「私」、「私」と考えても、人はその場所に導かれていくだろう。
 心のなかに現れるすべての想念のなかで、最初に現れるのは「私」という想
 念である。
 この想念が現れたあとにのみ、他の想念は現れる。
 二人称と三人称の人称代名詞が現れるのは、一人称が現れたあとのことであ
 る。
 一人称がなければ、二人称、二人称も存在しないだろう。(p396)


身体「私」

 身体のなかに「私」として立ち現れるものがである。
 もし身体のなかのどこに「私」という想念が最初に現れるかを探究するなら、
 それはハートのなかに現れることが発見されるだろう。
 そこがの起源となる場所である。
 絶えず「私」「私」と考えても、人はその場所に導かれていくだろう。(p396)


最初に現れる想念

 心のなかに現れるすべての想念のなかで、最初に現れるのは「私」という想
 念である。
 この想念現れたあとにのみ、他の想念現れる。
 二人称と三人称の人称代名詞が現れるのは、一人称が現れたあとのことであ
 る。
 一人称がなければ、二人称、二人称も存在しないだろう。(p396)


静かになる

 (どうすれば心は静かになるのか?、というなら)
 「私は誰か?」と尋ねることによつてである。
 「私は誰か?」という想念は、他のすべての想念を破壊するだろう。
 そして燃えている薪の山をかき混ぜる木の棒のように、ついには「私は誰か?」
 という想念そのものも減ぼされてしまうだろう。
 そのとき真我は実現されるだろう。(p396)


「私は誰か?」

 (どうすれば心は静かになるのか?、というなら)
 「私は誰か?」と尋ねることによつてである。
 「私は誰か?」という想念は、他のすべての想念を破壊するだろう。
 そして燃えている薪の山をかき混ぜる木の棒のように、ついには「私は誰か?」
 という想念そのものも減ぼされてしまうだろう。
 そのとき真我は実現されるだろう。(p396)


絶えず心に保つ

 (「私は誰か?」という想念を絶えず心に保つにはどうすればよいのか?、
  というなら)
 他の想念が起こっても、それを追いかけることをやめ、「この想念は誰に起
 こったのか?」と尋ねるべきである。
 どんなに多くの想念が起ころうとかまわない。
 想念が起こるたびに「この想念は誰に起こってきたのか?」と入念に探究す
 べきである。
 それに対して現れる答えは「私に」だろう。
 そこで、すぐに「私は誰か?」と探究すれば、心は源に引き戻され、起こっ
 た想念は静まるだろう。
 このように修練を繰り返せば、心は源にとどまることに熟達するだろう。(p396-397)


誰に起こったのか?

 (「私は誰か?」という想念を絶えず心に保つにはどうすればよいのか?、
  というなら)
 他の想念が起こっても、それを追いかけることをやめ、「この想念は誰に起
 こったのか?」と尋ねるべきでぁる。
 どんなに多くの想念が起ころうとかまわない。
 想念が起こるたびに「この想念は誰に起こってきたのか?」と入念に探究す
 べきである。
 それに対して現れる答えは「私に」だろう。
 そこで、すぐに「私は誰か?」と探究すれば、心は源に引き戻され、起こっ
 た想念は静まるだろう。(p396-3977)


源にとどまる

 (「私は誰か?」という想念を絶えず心に保つにはどうすればよいのか?、
  というなら)
 他の想念が起こっても、それを追いかけることをやめ、「この想念は誰に起
 こったのか?」と尋ねるべきでぁる。
 どんなに多くの想念が起ころうとかまわない。
 想念が起こるたびに「この想念は誰に起こってきたのか?」と入念に探究す
 べきである。
 それに対して現れる答えは「私に」だろう。
 そこで、すぐに「私は誰か?」と探究すれば、心は源に引き戻され、起こっ
 た想念は静まるだろう。
 このように修練を繰り返せば、心は源にとどまることに熟達するだろう。(p397)


「内にあること」(アンタール・ムカ)

 微細な心が脳や感覚器官を通って外に出ると、粗大な名前や形が現れる。
 心がハートのなかにとどまっていれば、名前と形は消え去る。
 心を外に出さずにハートのなかにとどめておくことは、「内にあること」
 (アンタール・ムカ)と呼ばれる。
 心をハートから外へ出させることは、「外へ向かうこと」(バヒール・ムカ)
 として知られる。
 このように、心がハートのなかにとどまっているとき、すべての想念の源で
 ある「私」は消え去り、永遠に存在する真我が輝きだす。
 人は何をするときにも、「私」という自我性なしにそれをすべきである。
 もしそのように行動すれば、すべてはシヴァ神の本性として現れるだろう。(p397)


アンタール・ムカ(「内にあること」)

 微細な心が脳や感覚器官を通って外に出ると、粗大な名前や形が現れる。
 心がハートのなかにとどまっていれば、名前と形は消え去る。
 心を外に出さずにハートのなかにとどめておくことは、「内にあること」
 (アンタール・ムカ)と呼ばれる。
 心をハートから外へ出させることは、「外へ向かうこと」(バヒール・ムカ)
 として知られる。
 このように、心がハートのなかにとどまっているとき、すべての想念の源で
 ある「私」は消え去り、永遠に存在する真我が輝きだす。
 人は何をするときにも、「私」という自我性なしにそれをすべきである。
 もしそのように行動すれば、すべてはシヴァ神の本性として現れるだろう。(p397)


「外へ向かうこと」(バヒール・ムカ)

 微細な心が脳や感覚器官を通って外に出ると、粗大な名前や形が現れる。
 心がハートのなかにとどまっていれば、名前と形は消え去る。
 心を外に出さずにハートのなかにとどめておくことは、「内にあること」
 (アンタール・ムカ)と呼ばれる。
 心をハートから外へ出させることは、「外へ向かうこと」(バヒール・ムカ)
 として知られる。
 このように、心がハートのなかにとどまっているとき、すべての想念の源で
 ある「私」は消え去り、永遠に存在する真我が輝きだす。
 人は何をするときにも、「私」という自我性なしにそれをすべきである。
 もしそのように行動すれば、すべてはシヴァ神の本性として現れるだろう。(p397)


バヒール・ムカ(「外へ向かうこと」)

 微細な心が脳や感覚器官を通って外に出ると、粗大な名前や形が現れる。
 心がハートのなかにとどまっていれば、名前と形は消え去る。
 心を外に出さずにハートのなかにとどめておくことは、「内にあること」
 (アンタール・ムカ)と呼ばれる。
 心をハートから外へ出させることは、「外へ向かうこと」(バヒール・ムカ)
 として知られる。
 このように、心がハートのなかにとどまっているとき、すべての想念の源で
 ある「私」は消え去り、永遠に存在する真我が輝きだす。
 人は何をするときにも、「私」という自我性なしにそれをすべきである。
 もしそのように行動すれば、すべてはシヴァ神の本性として現れるだろう。(p397)


他の方法はないのか?

 (心を静かにする他の方法はないのか?、というなら)
 探究以外に適切な方法はない。
 他の方法で心を静めても、心は制御されたように見えるだけで、再び勢いを
 増して現れるだろう。
 呼吸の制御によっても心は静められるが、それは呼吸が制御されている間だ
 けのことであり、呼吸が元に戻れば心もまた活動を始め、潜在する印象に駆
 りたてられてさ迷いだすだろう。(p397-398)


呼吸

 呼吸も、その源は同じである。
 想念とは、実はの本性である。
 「私」という想念がの最初の想念であり、それが自我性である。
 自我が生まれ出る同じ場所から呼吸も生まれる。
 そのため、が静かになれば呼吸も制御され、呼吸が制御されればも静か
 になる。
 けれども深い眠りのなかでは、は静かでありながら、呼吸は止まっていな
 い。
 これは、身体が維持されるように、そして死んでしまつたと他の人びとが思
 わないようにとの神の意志によるものである。
 目覚めの状態とサマーディにあっては、が静まっていれば呼吸は制御され
 ている。
 呼吸の粗大な姿である。
 死の時までは、は身体のなかに呼吸を保っている。
 身体が死ぬと、呼吸とともに出ていく。
 それゆえ、呼吸を制御する修練はを静める(マノニグラハ)助けにすぎず、
 の消滅(マノナーシャ)をもたらすことはない。(p398)


心を静める助け

 呼吸を制御する修練と同じように、神の姿に瞑想することや、マントラの復
 唱、断食などの修練も、心を静める助けにすぎない。
 
 神の姿に瞑想することや、マントラの復唱を通して、は一点に集中される。
 はつねにさ迷いつづけるだろう。
 鼻を鎖でつながれた象が、他の何もつかまえられないように、も神の御名
 や姿に満たされていれば、他の対象をとらえることはないだろう。
 が無数の想念へと拡散しているとき、そのひとつひとつの想念は弱いもの
 となる。
 だが、想念が決意を固めて一点に集中すれば、強いものとなる。
 そのようなにとって、真我を探究することは容易になるだろう。
 すべての規則制限のなかでも、適度な量の清らか(サートヴィック)な食事
 を摂るという方法が最上のものである。
 これを守ることによって、の清らかさは増し、真我の探究の助けとなるだ
 ろう。(p398-399)


ものごとの印象

 (海の波のように際限なく現れてくるものごとの印象は、いつになったら
  すべてぬぐい去られるのか、というなら)
 真我への瞑想が高まれば高まるほど、それらの想念は破壊されるだろう。(p399)


疑間に屈することなく

 (数知れない過去生から蓄積されてきた、心に刻まれたものごとの印象が
  取り除かれ、純粋な真我としてとどまることは可能か、というなら)
 可能か、可能でないかという疑間に屈することなく、真我への瞑想をつづけ
 るべきである。
 たとえ、人が大罪人であるとしても、「ああ、私は罪人だ。どうすれば救わ
 れるだろう?」と思い悩み、嘆き悲しむべきではない。
 「私は罪人だ」という想念を完全に棄て去り、真我への瞑想に強烈に集中す
 るべきである。
 そうすれば、確実にうまくいくだろう。(p399)


心はただひとつ

 ひとつは善く、もうひとつは悪いという二つのがあるのではない。
 心はただひとつだ。
 幸運と不運の二種類があるのは、ではなく、に刻まれる印象である。
 が幸運な印象の影響を受けたとき、それは善と呼ばれ、不運な印象の影響
 を受けたとき、それは悪と見なされる。(p399)




 ひとつはく、もうひとつはいという二つの心があるのではない。
 心はただひとつだ。
 幸運と不運の二種類があるのは、心ではなく、心に刻まれる印象である。
 心が幸運な印象の影響を受けたとき、それはと呼ばれ、不運な印象の影響
 を受けたとき、それはと見なされる。(p399)


さ迷いでぬよう

 心は世間のものごとや他の人びとに関することへとさ迷いでぬよう、戒めら
 れなければならない。
 他の人がどれほど悪くとも、彼に対して憎しみを抱かぬようにしなければな
 らない。(p400)


他の人びとに与える

 欲望と憎しみは、どちらも避けなければならない。
 人が他の人びとに与えるすべては、実は自分自身に与えているのだ。
 もしこの真理が理解されるなら、人びとに施しをしないでいられようか。
 自己が現れると、すべてが立ち現れ、自己が静まればすべては静まる。
 謙遜を忘れないならば、それに応じてよい結果が現れるだろう。
 心が静寂に帰すれば、人はどこででも生きていくことができる。(p400)


神やグルは

 (神やグルは、魂の解脱をもたらすことはできないのか、というなら)
 
 神やグルは解放への道を示すだけだろう。
 神やグルが人を解脱の状態に連れていくわけではない。
 実際は、神とグルは異なるものではない。
 トラの顎にくわえられた獲物に逃れるすべがないように、グルの慈悲深い眼
 差しにとらえられた者は、グルによって救われ、見棄てられることはないだ
 ろう。
 けれどもひとりひとりは、神あるいはグルによって示された道を自分自身の
 努力で究め、解脱に達しなければならない。
 人はただ自分の知識の目によってのみ、自分自身を知ることができる。
 ラーマ神がラーマ神であることを知るために、鏡の助けが必要だろうか?(p402-403)


意識の構成要素

 (神やグルは、魂の解脱をもたらすことはできないのか、というなら)
 
 神やグルは解放への道を示すだけだろう。
 神やグルが人を解脱の状態に連れていくわけではない。
 実際は、神とグルは異なるものではない。
 トラの顎にくわえられた獲物に逃れるすべがないように、グルの慈悲深い眼
 差しにとらえられた者は、グルによって救われ、見棄てられることはないだ
 ろう。
 けれどもひとりひとりは、神あるいはグルによって示された道を自分自身の
 努力で究め、解脱に達しなければならない。
 人はただ自分の知識の目によってのみ、自分自身を知ることができる。
 ラーマ神がラーマ神であることを知るために、鏡の助けが必要だろうか?(p402-403)


意識の構成要素

 (解脱を熱望する者にとって、意識の構成要素の本質(タットヴァ)を探
  究する必要があるか、というなら)
  
 ゴミを捨てたいと思っている人にとって、その中身を分析したり、それが何
 であるかを調べたりする必要がないように、真我を知ろうとする人にとって
 も、意識の性質を調べたり、その構成要素を分類して数えたりする必要はな
 い。
 彼がすべきことは、真我を覆い隠している構成要素すべてを払いのけること
 である。
 世界はひとつの夢のようなものと見なされなければならない。(p403)


ゴミを捨てたい

 (解脱を熱望する者にとって、意識の構成要素の本質(タットヴァ)を探
  究する必要があるか、というなら)
  
 ゴミを捨てたいと思っている人にとって、その中身を分析したり、それが何
 であるかを調べたりする必要がないように、真我を知ろうとする人にとって
 も、意識の性質を調べたり、その構成要素を分類して数えたりする必要はな
 い。
 彼がすべきことは、真我を覆い隠している構成要素すべてを払いのけること
 である。
 世界はひとつの夢のようなものと見なされなければならない。(p403)


夢のようなもの

 (解脱を熱望する者にとって、意識の構成要素の本質(タットヴァ)を探
  究する必要があるか、というなら)
  
 ゴミを捨てたいと思っている人にとって、その中身を分析したり、それが何
 であるかを調べたりする必要がないように、真我を知ろうとする人にとって
 も、意識の性質を調べたり、その構成要素を分類して数えたりする必要はな
 い。
 彼がすべきことは、真我を覆い隠している構成要素すべてを払いのけること
 である。
 世界はひとつの夢のようなものと見なされなければならない。(p403)


目覚め夢見

 (目覚め夢見の間に違いはないのか、というなら)
 
 目覚めている間は長く、を見ている間は短い。
 これより他に何の違いもない。
 目覚めの間に起こることが真実に見えるように、のなかで起こることも
 のなかでは真実に見える。
 のなかでは心はもうひとつの身体をとっている。
 目覚めの状態でも、夢見の状態でも、想念、名前、形は同時に現れるのであ
 る。(p403)


本を読むこと

 (解脱を願う者にとって、本を読むことにはどんな価値があるのか、
  というなら)
 
 すべての聖典は、解脱を得るためには心を静かに保たなければならないと述
 べている。
 それゆえ、心を静かに保つべきだということが、聖典の最終的な教えである。
 ひとたびこれが理解されたなら、際限なく本を読む必要はない。
 心を静めるには、人はただ自分自身の内に、真我とは何かと問いつづけるべ
 きである。
 この探究がどうして書物のなかでできるだろうか? 
 人は自分自身の智慧の目で、自分の真我を知るべきである。
 真我は五つの鞘の内にあるが、書物はその外にある。
 真我は五つの鞘を棄て去っていくことで探究されるべきものであるため、そ
 れを書物のなかに求めるのは無駄なことである。
 いずれ学んだことをすべて忘れ去らなくてはならないときが来るだろう。(p404)


幸福とは何か?

 幸福とは真我の本性そのものである。
 幸福と真我は別のものではない。
 世界のいかなるものごとのなかにも幸福はない。
 われわれは無知ゆえに、ものごとから幸福を得るものだと思っている。
 心が外へ出ていくと、不幸を体験する。
 心の願いが満たされたとき、実は、心は自己本来の場所に戻っており、真我
 である幸福を楽しむのである。
 同じように、眠りの状態、サマーディ、失神状態、あるいは、得たいと願つ
 ていたものが得られたり、嫌っていたものが消え去ったりしたときには、心
 は内面に向かい、純粋な真我‐幸福を楽しむのである。
 このように心は休むことなく動きまわり、真我からさ迷いでては、また戻っ
 てくるということを繰り返している。
 木陰は気持ちいいが、外では太陽が焼けつくようだ。
 灼熱の太陽のなかを歩いてきた人が木陰にたどり着けば涼しいと感じる。
 木陰からわざわざ出て猛暑のなかを行き、それからまた木陰に戻ってくるの
 は愚かなことである。
 賢い人はずっと木陰にとどまっているだろう。
 同じように、真理を知る人の心は、ブラフマンを離れることはない。
 その反対に、無知な人の心は、悲惨を味わいながら世界をさ迷い歩き、つか
 の間の幸福を味わうためにブラフマンに戻ってくる。
 実際には、世界と呼ばれているものはただの想念にすぎない。
 世界が消え去ったとき、つまり想念が存在しないとき、心は幸福を体験する。
 世界が現れると、不幸を味わうのである。(p404-405)


灼熱の太陽

 心は休むことなく動きまわり、真我からさ迷いでては、また戻ってくるとい
 うことを繰り返している。
 木陰は気持ちいいが、外では太陽が焼けつくようだ。
 灼熱の太陽のなかを歩いてきた人が木陰にたどり着けば涼しいと感じる。
 木陰からわざわざ出て猛暑のなかを行き、それからまた木陰に戻ってくるの
 は愚かなことである。
 賢い人はずっと木陰にとどまっているだろう。
 同じように、真理を知る人の心は、ブラフマンを離れることはない。
 その反対に、無知な人の心は、悲惨を味わいながら世界をさ迷い歩き、つか
 の間の幸福を味わうためにブラフマンに戻ってくる。
 実際には、世界と呼ばれているものはただの想念にすぎない。
 世界が消え去ったとき、つまり想念が存在しないとき、心は幸福を体験する。
 世界が現れると、不幸を味わうのである。(p405)


世界不幸

 心は休むことなく動きまわり、真我からさ迷いでては、また戻ってくるとい
 うことを繰り返している。
 木陰は気持ちいいが、外では太陽が焼けつくようだ。
 灼熱の太陽のなかを歩いてきた人が木陰にたどり着けば涼しいと感じる。
 木陰からわざわざ出て猛暑のなかを行き、それからまた木陰に戻ってくるの
 は愚かなことである。
 賢い人はずっと木陰にとどまっているだろう。
 同じように、真理を知る人の心は、ブラフマンを離れることはない。
 その反対に、無知な人の心は、悲惨を味わいながら世界をさ迷い歩き、つか
 の間の幸福を味わうためにブラフマンに戻ってくる。
 実際には、世界と呼ばれているものはただの想念にすぎない。
 世界が消え去ったとき、つまり想念が存在しないとき、心は幸福を体験する。
 世界が現れると、不幸を味わうのである。(p405)


洞察力(ジニャーナ−ドリシュティ)とは何か?

 静寂にあることが洞察力と呼ばれている。
 静寂にあるということは、真我のなかに心を帰り着かせることである。
 過去、現在、未来の出来事を知るテレパシーや千里眼は洞察力ではない。(p405)


ジニャーナ−ドリシュティ(洞察力)A

 静寂にあることが洞察力と呼ばれている。
 静寂にあるということは、真我のなかに心を帰り着かせることである。
 過去、現在、未来の出来事を知るテレパシーや千里眼は洞察力ではない。(p405)


静寂洞察力

 静寂にあることが洞察力と呼ばれている。
 静寂にあるということは、真我のなかに心を帰り着かせることである。
 過去、現在、未来の出来事を知るテレパシーや千里眼は洞察力ではない。(p405)


千里眼洞察力

 静寂にあることが洞察力と呼ばれている。
 静寂にあるということは、真我のなかに心を帰り着かせることである。
 過去、現在、未来の出来事を知るテレパシーや千里眼洞察力ではない。(p405)


無欲智慧A

 (無欲智慧にはどんな関係があるのか、というなら)
 
 無欲智慧である。
 二つは別のものではない。
 それは同じである。
 無欲とは、心がいかなる対象物に向かうことも差し控えることである。
 智慧とは、何の対象物も現れないことを意味している。
 言い換えれば、真我以外の何ものも求めないことが無執着あるいは無欲であ
 り、真我をけっして離れないことが智慧である。(p405-406)


智慧とは

 (無欲と智慧にはどんな関係があるのか、というなら)
 
 無欲が智慧である。
 二つは別のものではない。
 それは同じである。
 無欲とは、心がいかなる対象物に向かうことも差し控えることである。
 智慧とは、何の対象物も現れないことを意味している。
 言い換えれば、真我以外の何ものも求めないことが無執着あるいは無欲であ
 り、真我をけっして離れないことが智慧である。(p405-406)


探究と瞑想の違い

 (探究と瞑想の違いは何か、というなら)
 
 探究とは、真我のなかに心をとどめておくことである。
 瞑想とは、自己をブラフマン、つまり存在‐意識‐至福であると思いなすこ
 とである。(p406)


解脱とは何か

 (解脱とは何か、というなら)
 
 束縛されている自己の本性を探究すること、その真の本性を悟ることが解脱
 である。(p406)
好み:(-||-)